マキノ映画製作所
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マキノ映画製作所(マキノえいがせいさくしょ、1923年 設立 - 1924年 合併)は、かつて存在した日本の映画会社である。1920年代(大正末期)の日本映画において活動し成功した、初期の独立プロダクションである。俳優だった衣笠貞之助を監督としてフル稼働し、大部屋俳優であった阪東妻三郎をスターにし、20代前半の若者たちを脚本家・寿々喜多呂九平、映画監督・二川文太郎、井上金太郎としてデビューさせた。
- ^ http://www.matsudafilm.com/matsuda/c_pages/c_de.html
- ^ http://www.imdb.com/name/nm0538634/bio
- ^ 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「牧野省三」の項(p.360-363)を参照。同項執筆は田中純一郎。
- ^ a b 立命館大学の「京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト」サイト内の「等持院撮影所」の記述を参照。
- ^ 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「寿々喜多呂九平」の項(p.223-224)を参照。同項執筆は岸松雄。
- ^ 直木の甥・植村鞆音『直木三十五伝』(文藝春秋、2005年 ISBN 4163671501)の記述を参照。
- 1 マキノ映画製作所とは
- 2 マキノ映画製作所の概要
- 3 註
マキノ映画
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手広く事業を広げた同社が子会社として設立したのが「マキノ映画」である。設立第1作『桜御殿』はマキノ真三自らが監督、宮城千賀子が主演、脚本に八尋不二を起用、撮影は戦前の市川右太衛門プロダクションから大都映画で量産した松井鴻が支えた。松井は同社が製作した全3作でカメラを回している。また、共演者に宮城とおなじ宝塚出身の霧立のぼる、松竹少女歌劇部(SSK)第2期生のオリエ津阪、真三の兄・マキノ正博が戦前に撮った『鴛鴦歌合戦』(1937年)にも出演した宝塚出身の歌手の服部富子を配した。 同様の枠組みで製作した『サザエさん 前後篇』の配給は松竹が行なったが、同社は1948年10月に親会社の「マキノ芸能社」が解散したため、畳まざるを得なくなった。最終作の『鉄路の薔薇』には新宿ムーランルージュのスター・明日待子を起用したが、解散後に東宝に上映権を売却している。東屋トン子主演の続編『サザエさん のど自慢歌合戦』(1950年)は、「東洋スタジオ」がまったく同様のキャスト・スタッフで製作し、大映が配給している。 2009年(平成21年)、東京国立近代美術館フィルムセンターが、同社の製作した短篇・教育映画『ゴムまり』(1947年)、長篇劇映画『暗黒街の天使』(1948年)がマキノ雅広宅から発見され、復元したとして、同センターの大ホールで上映した。
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