寿々喜多呂九平のデビュー
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「マキノ映画製作所」の記事における「寿々喜多呂九平のデビュー」の解説
1922年(大正11年)春、横浜の大活にいた知人山内英三(のちの映画監督)のツテで牧野監督の『実録忠臣蔵』の試写を観た22歳の寿々喜多呂九平は、いきなり京都入りして「牧野教育映画製作所」の文芸部に入社した。同じ下宿にいた阪東妻三郎、二川文太郎、井上金太郎ら俳優と映画論を戦わせ、まだ無名だった阪東を牧野に推薦する。翌年の「マキノ映画製作所」設立の翌月には、牧野・金森共同監督による市川幡谷主演作品『紫頭巾浮世絵師』で、牧野は寿々喜多を脚本家としてデビューさせた。同社で24作の脚本を量産、寿々喜多のニヒリスティックな脚本は、阪東を一躍スターにした。 同社は「牧野教育映画製作所」開業と同時に入社した横浜・大活出身の俳優二川文太郎、井上金太郎をそれぞれ監督としてデビューさせた。二川24歳、井上21歳のときであった。1924年4月4日封切の浅草大東京の番組は、二川・井上そして後藤監督、寿々喜多呂九平脚本による短篇大会となった。また国活の角筈十二社撮影所長を辞めた桝本清に1本監督させ、国活脚本部にいた23歳の志波西果に数本の脚本・助監督を経験させたあと監督としてデビューさせ、長尾の助監督村田武俊、高松豊次郎の「活動写真資料研究会」の俳優兼監督井上麗三にも1本監督させている。 また1924年4月、新進作家直木三十五(当時「直木三十三」)が書いた小説『心中きらゝ坂』が、大阪プラトン社の雑誌『苦楽』に掲載されているのを読んだ牧野は、たまたま同月撮影所に招待したプラトン社の小山内薫と川口松太郎に同伴した直木に映画化を要望、「マキノ青司」名で自ら脚本執筆、『雲母阪』のタイトル、阪東の主演で映画化、2か月後の6月20日には完成、公開された。以降、直木は映画に傾倒し、翌年3月には奈良で映画製作プロダクション「連合映画芸術家協会」を旗揚げすることになる。 1924年(大正13年)7月、牧野は東亜キネマとの合併を呑むが、その後の1925年6月、マキノ・プロダクション(1925年 設立 - 1932年7月 解散)を設立、完全に独立する。
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