寿々喜多呂九平のデビューとは? わかりやすく解説

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寿々喜多呂九平のデビュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 22:48 UTC 版)

マキノ映画製作所」の記事における「寿々喜多呂九平のデビュー」の解説

1922年大正11年)春、横浜大活にいた知人山内英三(のちの映画監督)のツテ牧野監督の『実録忠臣蔵』の試写を観た22歳寿々喜多呂九平は、いきなり京都入りして「牧野教育映画製作所」の文芸部入社した。同じ下宿にいた阪東妻三郎二川文太郎井上金太郎俳優映画論を戦わせ、まだ無名だった阪東を牧野推薦する翌年の「マキノ映画製作所設立翌月には、牧野金森共同監督による市川幡谷主演作品紫頭巾浮世絵師』で、牧野寿々喜多脚本家としてデビューさせた。同社24作の脚本量産寿々喜多ニヒリスティック脚本は、阪東を一躍スターにした。 同社は「牧野教育映画製作所開業同時に入社した横浜大活出身俳優二川文太郎井上金太郎それぞれ監督としてデビューさせた。二川24歳井上21歳のときであった1924年4月4日封切浅草大東京番組は、二川井上そして後藤監督寿々喜多呂九平脚本による短篇大会となった。また国活角筈十二社撮影所長を辞めた桝本清に1本監督させ、国活脚本部にいた23歳志波西果数本脚本助監督経験させたあと監督としてデビューさせ、長尾助監督村田武俊、高松豊次郎の「活動写真資料研究会」の俳優監督井上麗三にも1本監督させている。 また1924年4月新進作家直木三十五当時直木三十三」)が書いた小説心中きらゝ坂』が、大阪プラトン社雑誌苦楽』に掲載されているのを読んだ牧野は、たまたま同月撮影所招待したプラトン社小山内薫川口松太郎同伴した直木映画化要望、「マキノ青司」名で自ら脚本執筆、『雲母阪』のタイトル、阪東の主演映画化、2か月後の6月20日には完成公開された。以降直木映画傾倒し翌年3月には奈良映画製作プロダクション連合映画芸術家協会」を旗揚げすることになる。 1924年大正13年7月牧野東亜キネマとの合併呑むが、その後1925年6月マキノ・プロダクション1925年 設立 - 1932年7月 解散)を設立、完全に独立する

※この「寿々喜多呂九平のデビュー」の解説は、「マキノ映画製作所」の解説の一部です。
「寿々喜多呂九平のデビュー」を含む「マキノ映画製作所」の記事については、「マキノ映画製作所」の概要を参照ください。

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