脚本家としてデビュー
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宝塚歌劇団図書館にあった全ての「戯曲集」を読み終え松竹大船撮影所に復帰。1945年(昭和20年)秋書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され1947年(昭和22年)のキネマ旬報ベストテン4位となり初めて実力が認められた。溝口のために溝口の戦後第1作『女性の勝利』(1946年)と『わが恋は燃えぬ』(1949年)を書く。戦中に亡くなった内妻の孝子のために書いた『愛妻物語』のシナリオはこの頃に書いている。 1946年(昭和21年)34歳のときに美代と結婚。美代とは60歳(1972年)まで婚姻関係を続けている。 1947年(昭和22年)に、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表する。大ヒットしキネマ旬報ベストテン1位も獲得、シナリオライターとしての地位を固めた。その後は吉村とのドル箱コンビで『わが生涯のかゞやける日』(1948年)などのヒット作を連発。木下惠介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯!』を書く。 1949年(昭和24年)、『森の石松』の興行的失敗等で松竹首脳らが「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」とクレームをつけるに及び、自らの作家性を貫くため1950年(昭和25年)、松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立。
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