脚本家としてデビューとは? わかりやすく解説

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脚本家としてデビュー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:20 UTC 版)

新藤兼人」の記事における「脚本家としてデビュー」の解説

宝塚歌劇団図書館にあった全ての戯曲集」を読み終え松竹大船撮影所復帰1945年昭和20年)秋書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され1947年昭和22年)のキネマ旬報ベストテン4位となり初め実力認められた。溝口のために溝口戦後第1作女性勝利』(1946年)と『わが恋は燃えぬ』(1949年)を書く。戦中亡くなった内妻孝子のために書いた愛妻物語』のシナリオこの頃書いている。 1946年昭和21年34歳のときに美代結婚美代とは60歳1972年)まで婚姻関係続けている。 1947年昭和22年)に、吉村公三郎組んで安城家の舞踏会』を発表する大ヒットキネマ旬報ベストテン1位も獲得シナリオライターとしての地位固めたその後吉村とのドル箱コンビで『わが生涯のかゞやける日』(1948年)などのヒット作連発木下惠介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯!』を書く。 1949年昭和24年)、『森の石松』の興行的失敗等で松竹首脳らが「新藤シナリオ社会性強くて暗い」とクレームをつけるに及び、自らの作家性を貫くため1950年昭和25年)、松竹退社して独立プロダクション先駈けとなる近代映画協会吉村殿山泰司らと設立

※この「脚本家としてデビュー」の解説は、「新藤兼人」の解説の一部です。
「脚本家としてデビュー」を含む「新藤兼人」の記事については、「新藤兼人」の概要を参照ください。

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