脚本家マクギリヴレイ、女優シーラ・キースとの出会い
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「ピート・ウォーカー (映画監督)」の記事における「脚本家マクギリヴレイ、女優シーラ・キースとの出会い」の解説
1974年にピート・ウォーカーは脚本家のデヴィッド・マクギリヴレイと出会う。ピート・ウォーカーはみずから書き下ろした恐怖映画の原案の脚本化を、意気投合したマクギリヴレイに依頼する。マクギリヴレイの脚色を得たウォーカーは恐怖映画への再起を賭けて『拷問の魔人館』House of Whipcord(1974年)を監督し、この映画がウォーカーにとって初の本格的なヒット作となる。 『拷問の魔人館』は、当時話題となっていたトビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(1974年)からの影響を受けたサイコ・ホラーの傑作である。美貌のフランス人モデル、アンヌ=マリー(ペニー・アーヴィング)は、パーティーの席でマーク・E・ド・サド(ロバート・テイマン)と名乗る青年から誘いを受けて彼の自宅へと連れて行かれる。しかしアンヌ=マリーが連れて行かれた館では、狂った判事であるマークの父親と母親が支配する私設刑務所であった。マークの父親ベイリー判事(パトリック・バー)は保守的な裁判官だが、引退後に発狂して家族とともに若い女性を誘拐して私設裁判にかけて監禁していた。ベイリー判事の妻・マーガレット夫人(バーバラ・マーカム)と息子のマークも狂った父親の悪影響を受けていた。ベイリー判事の私設法廷で、アンヌ=マリーは人前で肌をさらす「モデル」という職業の退廃性を裁かれ「有罪判決」を受け、館の牢獄に監禁されてしまう。マーガレット夫人が支配する私設刑務所にはアンヌ=マリーの他にも、誘拐されてベイリー判事の私設法廷でさまざまな言いがかりによる罪状によって裁かれ、有罪判決を受けた女たちが監禁されていた。監禁された女たちはマーガレット夫人と狂った2人の女看守ウォーカー(シーラ・キース)とベイツ(ドロシー・ゴードン)から拷問を受ける。そしてマーガレット夫人と2人の女看守は気に入らないことがあると、監禁された女に対して死刑宣告を下して、処刑と称して惨殺することを楽しんでいた…。 『拷問の魔人館』は“『悪魔のいけにえ』に対するイギリスからの知的な回答”と呼ばれてアメリカでも高く評価されている。『悪魔のいけにえ』における狂人一家を、『拷問の魔人館』では保守的な裁判官とその一家として脚色した。厳格なモラル意識とキリスト教の道徳観念を盾に残虐な拷問・殺人を繰り返す一家の恐怖を描き、イギリスに根強く存在する保守主義の偽善性を批判した映画として高く評価されている。イギリスの有力な映画批評誌"Monthly Film Bulletin"誌は、『拷問の魔人館』をマイケル・パウエル監督の名作『血を吸うカメラ』(1960年)と比較して批評する論文を掲載した。 『拷問の魔人館』でピート・ウォーカーは、脚本家のマクギリヴレイの他にもう一人の重要な協力者と出会う。それはベテラン女優のシーラ・キースであった。シーラ・キースは舞台を中心にテレビドラマなどで活躍していた初老の女優であり、ピーター・クッシングがシャーロック・ホームズを演じたテレビドラマやケネス・モアがブラウン神父を演じたテレビドラマ、ウィルキー・コリンズの推理小説『月長石』を原作としたテレビドラマなどに脇役で出演していたが、恐怖映画の出演経験は全くなかった。しかしこの映画でシーラ・キースが演じた、私設刑務所の狂った女看守ウォーカーの怪演はセンセーションを巻き起こし、地味な脇役女優だったシーラ・キースが秘めていた希有なホラー女優としての才能を引き出すこととなった。
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