脚本家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 06:49 UTC 版)
小説は書き続けていたが出版される見込みがないため、職を得ようと知人の紹介でワーナー・ブラザースの脚本部に採用された。脚本家としては1936年に2本の映画が公開されデビューした。脚本家としていくつもの会社を渡り歩き、多数の脚本を手がける一方で小説の執筆も続け、1939年には小説『ジョニーは戦場へ行った』を出版した。 『ジョニーは戦場へ行った』(Johnny Got His Gun)は負傷兵を描いた小説で、タイトルは第一次世界大戦の志願兵募集キャッチフレーズ「ジョニーよ銃を取れ」(Johnny Get Your Gun)に対する皮肉と思われる。 この本は第二次世界大戦中には戦争支持派から度重なる脅迫を受ける一方で、反ユダヤ主義者やファシストのグループからは早期講和を目指すプロパガンダに利用され、そのような読者からは何通もの手紙が送られてきた。トランボは連邦捜査局(FBI)に通報するが、FBIは右翼グループからの手紙ではなく、トランボの思想や活動について取り調べを行った。トランボは戦争支持へと転換したとFBIに手紙で抗議した。『ジョニーは戦場へ行った』は戦後になってから復刊され、さらに朝鮮戦争時に再度絶版となり、休戦後復刊された。 脚本家としては、1940年の『恋愛手帖』でアカデミー脚色賞にノミネートされ、『東京上空三十秒』『緑のそよ風』など多数の脚本を手がけて評価され、着実にキャリアを積んでいた。
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