戦後・俳優、ベテラン歌手としてとは? わかりやすく解説

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戦後・俳優、ベテラン歌手として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 13:52 UTC 版)

ディック・ミネ」の記事における「戦後・俳優、ベテラン歌手として」の解説

戦後ミネジャズ復活とともに流行歌世界で活躍再開し1947年昭和22年)、水島道太郎共演した松竹映画地獄の顔』の主題歌夜霧のブルース』、『長崎エレジー』がともに大ヒットした。『酒場で』、『火の接吻』などのヒット続け一方でスクリーンステージで活躍する。また演技もできる歌手として力道山主演の『純情部隊』などに俳優として活躍したミネは「僕が時代劇に出るとバカ殿現代劇ならヤクザ。こんな役しかこなかった」と語っているが、ミネ本人満足していたようである。 1955年昭和30年以降フランク永井ミネ名づけ親となったジェームス三木歌手としてデビューし、後に脚本家へ転向)など後輩面倒見もよく、後に俳優として活躍した藤田まこと植木等らを育てている。また、立教大学後輩になる灰田勝彦とも長年にわたり親交深かったミネテレビ登場とともに司会コメンテーターとして活躍し1965年昭和40年以降の「懐メロブームには欠かせない存在となった。「日本歌手協会」の3代目会長となった後も、「自分好き放題やってきたから世の中ためになることをしたい」と「反核運動」にも参加する一面見せた1979年昭和54年)、勲四等旭日小綬章受章1982年昭和57年)には淡谷のり子とのデュエット楽曲モダンエイジ』を発表し、「二人合わせて150歳のデュエット」と話題になったカツラ愛用者であり、日本製ではなくアメリカ製のものを使用していた。 ミネ生涯で4人の妻を持ち、“伝説ギタリスト”と謳われる三男三根信宏始めとする10人の子儲けた加山雄三実父である上原謙70歳代で子供儲けると「俺だって90歳になろうが子供作れる。だけど子供成人する迄に俺が生きて保証がない。20歳成人まで面倒を見るのが親としての責任」だとTV番組語った天下プレイボーイとして知られミネであったが、1985年昭和60年)頃から次第体調を崩すようになったミネ生涯最後のステージ1990年平成2年)夏に行われた日本歌手協会主催恒例イベント日本歌謡祭」であったミネは既にこの時には自力歩行できないほど衰弱し、声も思うよう出ない態となっていたが、無理を押して出演し代表曲ダイナ」を渾身の力を振り絞るように熱唱した。 1991年平成3年6月10日ミネ急性心不全のため死去した82歳没。ミネ墓所多磨霊園にあり、歌手俳優テレビタレントとして活躍し生涯通算500億円以上を得たが、離婚の度に財産手放しており遺産はなかったという。

※この「戦後・俳優、ベテラン歌手として」の解説は、「ディック・ミネ」の解説の一部です。
「戦後・俳優、ベテラン歌手として」を含む「ディック・ミネ」の記事については、「ディック・ミネ」の概要を参照ください。

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