戦後、出版事業
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終戦後、鎌倉に別宅を持っていた大同製紙社長橋本作雄の申し入れを受けて、1945年9月に出版社として発足し、丸ビル6階に事務所を構えた。資本金19万5000円、会長に大同の橋本、社長に久米正雄、重役陣に川端、大佛、中山、高見ら、株主に吉屋信子などがいた。久米の意中には、盟友菊池寛の文藝春秋社設立による成功に対抗する意識があったといわれている。 1945年12月、川端と久米が文藝誌『人間』を創刊。編集長に改造社時代の『文藝』の編集長だった木村徳三が就任。売れ行きは好調で、「文士の出版商法」として注目を集めた。1946年6月、川端の後押しにより、当時無名だった三島由紀夫の短篇「煙草」を掲載し、反響を呼ぶ。また『現代文学選』『大衆文学選』を刊行。 貸本業も継続し、10月から東京日本橋の白木屋に店舗を開き、出版社の事務所も白木屋に移す。1946年1月17日、「株式会社鎌倉文庫」となる。 1946年10月、一般社会人向け雑誌『社会』およびヨーロッパ文学紹介誌『ヨーロッパ』を創刊。 1947年4月下旬、東京日本橋の茅場町に木造二階建ての独立社屋を建設し、ここに移転。大同製紙が同社の持ち紙の払底を機として資本金を引き揚げたため、川端と高見が同社を非難する。その半年後、紙の統制が始まったため、大きな打撃を受ける。 1948年6月、大学卒業間もない遠藤周作が嘱託として入社。20世紀外国文学辞典の編纂を手伝う。 1949年、紙事情の好転に伴い、久米の発案で大衆文藝誌『文藝往来』を創刊。編集長に出版部長の巖谷大四が就任。しかし同誌が売上を伸ばす前に、同業他社の増加や大手老舗出版社の復興に押されて経営状況が悪化。大同製紙出身の岡澤専務が社長に就任、久米は会長に、川端は副社長になったが、『社会』『婦人文庫』の不振を理由にした人員整理案に反対してのストライキ騒動など、岡澤の独断専行や組合問題の紛糾などが重なって倒産。唯一売上が好調だった『人間』誌は、教科書出版会社の目黒書店に250万円で売却された。
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