戦後、出版事業とは? わかりやすく解説

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戦後、出版事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:36 UTC 版)

鎌倉文庫」の記事における「戦後、出版事業」の解説

終戦後鎌倉別宅持っていた大同製紙社長橋本作雄の申し入れ受けて1945年9月出版社として発足し丸ビル6階事務所構えた資本金195000円会長大同橋本社長に久米正雄重役陣に川端大佛中山高見ら、株主吉屋信子などがいた。久米意中には、盟友菊池寛文藝春秋社設立による成功対抗する意識があったといわれている。 1945年12月川端久米文藝誌人間』を創刊編集長改造社時代の『文藝』の編集長だった木村徳三就任売れ行き好調で、「文士出版商法」として注目集めた1946年6月川端後押しにより、当時無名だった三島由紀夫短篇煙草」を掲載し反響を呼ぶ。また『現代文学選』『大衆文学選』を刊行貸本業継続し10月から東京日本橋白木屋店舗開き出版社事務所白木屋に移す。1946年1月17日、「株式会社鎌倉文庫」となる。 1946年10月一般社会人向け雑誌社会』およびヨーロッパ文学紹介誌『ヨーロッパ』を創刊1947年4月下旬東京日本橋茅場町木造二階建て独立社屋建設し、ここに移転大同製紙同社持ち紙の払底を機として資本金引き揚げたため、川端高見同社非難する。その半年後、紙の統制始まったため、大きな打撃を受ける。 1948年6月大学卒業間もない遠藤周作嘱託として入社20世紀外国文学辞典編纂手伝う。 1949年、紙事情好転に伴い久米発案大衆文藝誌『文藝往来』を創刊編集長出版部長の巖谷大四就任。しかし同誌が売上伸ばす前に同業他社増加大手老舗出版社復興押され経営状況悪化大同製紙出身岡澤専務社長に就任久米会長に、川端副社長になったが、『社会』『婦人文庫』の不振理由にした人員整理案に反対してのストライキ騒動など、岡澤独断専行組合問題紛糾などが重なって倒産唯一売上好調だった人間』誌は、教科書出版会社目黒書店250万円売却された。

※この「戦後、出版事業」の解説は、「鎌倉文庫」の解説の一部です。
「戦後、出版事業」を含む「鎌倉文庫」の記事については、「鎌倉文庫」の概要を参照ください。

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