戦後・再開から発展へ
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1948年(昭和23年)6月11日:日本での進駐軍(GHQ・連合国軍)の「要請」により「特急」を浅草 - 東武日光間で運行再開。運行形態としては国鉄二等客車を進駐軍専用車両とし、電車でそれを牽引する形態で、当初は金曜日から日曜日までの1日1往復とされた。 1948年(昭和23年)8月6日:進駐軍専用列車の牽引電車に定員制だが「華厳」として一般乗客を乗車させることとし、浅草 - 鬼怒川温泉間の特急として「鬼怒」の運行を再開。この列車に自由定員制の特急券(当時は急行券名義)を設定した。また、進駐軍専用列車以外はロングシート車が充てられた。なお、「鬼怒」は土曜日のみ設定された。 1949年(昭和24年):デハ10系の復旧に伴い全車両を「華厳」「鬼怒」に充当することが可能になり、「華厳」が毎日運行となる。これに伴い下今市駅で「華厳」の分割運転も開始され、浅草 - 東武日光・鬼怒川温泉間での運行となる。また、進駐軍専用列車の運用を終了する。 1950年(昭和25年):「鬼怒」にトク500形展望車連結を再開。1949年にオープンデッキ方式から密閉式への改造を受けた上で団体用車両として使用されていたが、定期列車用車両として使用を再開したのは同年からである。しかし、5700系の就役に伴い翌1950年には定期列車での使用が中止される。 1951年(昭和26年):5700系就役。この頃より列車名も「けごん」「きぬ」の平仮名表記となる。また新たに鬼怒川線発着の特急に「おじか」、日光線・鬼怒川線併結特急に「さち」の愛称名が付与される。 1952年(昭和27年):急行券の制度を座席指定制に変更。 1953年(昭和28年):5700系の増備に伴って余剰となったモハ5310形・クハ350形を用いて(有料)急行列車の運行を開始する。以降の急行列車・快速急行列車の沿革については東武日光線旧急行・快速急行列車沿革参照。 1956年(昭和31年):特急専用車両として1700系の運用を開始。この時設定された日光線発着特急に「きりふり」「たかはら」(「たかはら」は鬼怒川線発着併結列車にも使用された)、鬼怒川線発着特急に「ゆのはな」の愛称名が付与された。特急停車駅:浅草 - 下今市 - 東武日光・鬼怒川温泉 運行本数:浅草 - 東武日光間(特急毎日4往復、急行毎日2往復)、浅草 - 鬼怒川温泉間(特急毎日3往復、急行平日1往復、土日は2往復) 1957年(昭和32年):1700系を増備し特急専用車両を同系に統一。また「けごん」に浅草 - 東武日光間ノンストップ列車の運行(朝下り3本、夕上り1本)を開始。営業最高速度を95km/hから105km/hへと引き上げる。これには1956年に運行を開始した国鉄日光線準急「日光」に対抗するための輸送量と速度の向上ということが理由として挙げられる。 1958年(昭和33年):「準快速」運行開始。この頃の下今市から先の特急接続はバス連絡であった。特急停車駅:浅草 - 下今市 - 東武日光・鬼怒川温泉 運行本数:浅草 - 東武日光間(特急毎日3往復、急行平日2往復日曜は3往復)、浅草 - 鬼怒川温泉間(特急毎日3.5往復、急行平日1往復土曜は3往復) 1959年(昭和34年):秋季より浅草 - 東武宇都宮間運行の有料急行が廃止となった。東武宇都宮線の有料急行列車愛称として使用された「しもつけ」は、その廃止後、鬼怒川線発着急行の愛称として使用された。また同じく鬼怒川線発着の特急に新たに「かわじ」の愛称が使用された。特急停車駅:浅草 - 下今市 - 東武日光・鬼怒川温泉(下り東武日光行きと上り東武日光発最終1本は下今市通過) 運行本数:浅草 - 東武日光間(特急平日3往復土日は4往復、急行平日2往復休日は3往復)、浅草 - 鬼怒川温泉間(特急平日下り3本上り5本土日は下り4本上り6本、急行平日1往復土曜は3往復)
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