婦人文庫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:36 UTC 版)
1945年12月に鎌倉文庫と吉屋信子、真杉静枝、中里恒子、村岡花子らが相談し、女性雑誌『婦人文庫』を出すことを決め、1946年5月に創刊。創刊当時の編輯長は吉屋信子で、編集長実務は北條誠、元『改造』編集次長で横浜事件で逮捕されて45年8月に出所した若槻繁が川端に請われて編集次長を務めた。創刊号は132ページ、4円50銭、表紙は岡鹿之助、巻頭で横光利一「春の日」、川端、田中耕太郎、中野好夫、加藤静枝の座談会「新しき女性の再建に寄せて」、菊池寛「相愛記」などを掲載。「相愛記」では空襲を描写した部分の一部がGHQの検閲で削除された。次の6月号でも、川端、芹沢光治良、今日出海、河盛好蔵の座談会「結婚と道徳について」で、進駐軍兵士の素行への批判部分が削除された。7月号では川端「生命の樹」の特攻隊員について語った部分、島木健作「扇谷日記抄」でフランス批判とされた部分、平林たい子「印旛郡にて」で外国煙草を吸う描写などが削除された。当初は2〜3万部を発行。 3号から編集人が若槻に、表紙が中原淳一となる。1948年9・10月合併号では太宰治の死をめぐる特集「愛と死の問題」。この頃が5万部で最盛期だった。1949年7月号から5ヶ月の空白をおいて最終号を発行して倒産。 鎌倉文庫の肝煎りで1946年7月には女流文学者会が発足しており、林芙美子、宇野千代、吉屋信子、佐多稲子、真杉静枝などが参加。『婦人文庫』では女流文学者賞を主催し、1947年に第1回を平林たい子に授与した。 若槻は1950年12月にひまわり社から『婦人文庫』を復刊させるが、2号で終了した。
※この「婦人文庫」の解説は、「鎌倉文庫」の解説の一部です。
「婦人文庫」を含む「鎌倉文庫」の記事については、「鎌倉文庫」の概要を参照ください。
- 婦人文庫のページへのリンク