脚本家に専念
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第二次世界大戦終戦後は東宝(宝塚映画)、大映で各1本ずつ監督した他は脚本業に専念。大映に移籍して、勝新太郎が個性派俳優に転機するきっかけとなった『不知火検校』の脚本を手掛け、更に子母澤寛の短編集『ふところ手帳』の1エピソードを膨らませた『座頭市物語』の脚本を執筆。時代劇のヒーロー座頭市の強烈なキャラクターを作り上げた。なお自身の著書では、子母澤は座頭市の些細な原案しか執筆しておらず、実質的な設定は犬塚自身が手掛けたと述べている。その説については支持する者も多いが異論もある。詳細は座頭市#裏話#原作を参照。 しかしシリーズが進むうちに勝や製作会社の大映との間で作品イメージをめぐって対立するようになり、『座頭市二段斬り』(1965年)を最後にシリーズを離れ、同時に映画界からも離れてテレビ時代劇に仕事の場を移すこととなる。その後も勝の懇願を受けて映画『新座頭市物語 折れた杖』やテレビシリーズ『座頭市物語』などの脚本を手掛けるが、1989年(平成元年)、松竹で製作された映画『座頭市』の脚本料をめぐって勝との間で訴訟沙汰となる(その後和解)。 以後、第一線から姿を消すが、以後、映画史関連の各種インタビューでの露出や講演執筆活動は行っていた。2002年(平成14年)、NHK-BSのドキュメンタリー『「101歳のシナリオ」〜日本映画に生きた男・犬塚稔〜』で健在ぶりが紹介された。同年には自伝エッセイ『映画は陽炎の如く』も出版された。 晩年は滋賀県高島市安曇川地域に居住して執筆を続けていたが、2007年(平成19年)9月17日に老衰のため死去。106歳没(享年107)。
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