脚本家から映画スターへ
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1927年(昭和2年)、松竹蒲田撮影所の俳優森野五郎と日活大将軍撮影所の俳優だった片岡松燕がそれぞれ独立して設立したプロダクションの合同製作で、『恋の四千両』を監督、引き続き『狂恋魔刃』を片岡松燕プロダクションで監督するが、先に京都の日活大将軍に入社した山本を頼って、横田も同撮影所に入った。同撮影所では書いた脚本は映画化にまで至らず、太秦への移転にともなって異動した1930年(昭和5年)から、『怪盗夜叉王』をはじめとする映画化脚本を「宇留木浩」名で数本書く。当時の同撮影所長・池永浩久の命令で俳優に転向、木藤茂監督の『彼女への飛来』に宇留木名義で主演する。以降、専業俳優「宇留木浩」となり、山本の監督作にも出演した。1934年(昭和9年)の日活現代劇部の多摩川撮影所(現在の東京都調布市、角川大映スタジオ)への移転にともない、多摩川に異動になる。 1935年(昭和10年)、前年に東京・砧のP.C.L.映画製作所に移った山本を追い、宇留木は山本が監督をする夏目漱石原作の映画『坊つちやん』の主役試験に合格、この1作で宇留木はスターとなった。以降同年中に、山本や成瀬巳喜男、木村荘十二、矢倉茂雄らの監督作に7本出演した。山本がPCL入りした年に、妹の細川ちか子も舞台女優から転身して同社に入社しており、木村監督の『三色旗ビルディング』などで「兄妹共演」をしている。 1936年(昭和11年)も5本に出演し、同年8月21日には歌手の藤山一郎主演、矢倉監督の『大洋の寵児』が「日本劇場」ほかで公開になった。映画公開の同日、浅草の「花月劇場」で宇留木主演の舞台版『坊つちゃん』が開幕になり、27日に千秋楽を迎えた。終演後の夜、迎えに来た妻と浅草公園六区のてんぷら屋での食事後、突然の狭心症に倒れる。その夜も明けぬ同年28日午前1時に死去。33歳没。
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