脚本家から監督へ
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1901年(明治34年)2月15日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区)花川戸に生まれ、台湾の台北市で少年時代を過ごす。父は『劇団新派』の前身の一つとされる『成美団』の座付作家・大須賀豊(本名・犬塚福太郎)だが犬塚が五歳の時に死別した。 成人して台北銀行(※犬塚本人の回想では台湾銀行)に就職するが、演劇に興味を持ち退職。演劇作家になるべく東京に戻ろうとするが、途中京都で出会った白井信太郎から映画の脚本家になることを強く勧められ、1924年(大正13年)1月、松竹下加茂撮影所の脚本部に入社。賀古残夢や野村芳亭などの監督作品の他、衣笠貞之助が監督した前衛映画『狂つた一頁』(1926年)の脚本なども手掛けた。 1927年(昭和2年)、新人俳優・林長丸(後の長谷川一夫)を松竹キネマ(現在の松竹)がスターとして売り出すことになった。白井は林を売り出す面白いチャンバラ映画の脚本を明日までに書いてくれと切り出し、犬塚は何とかこれを3日に伸ばしてもらい、林の「林長二郎」改名・映画デビュー作『稚児の剣法』の脚本を3日で書き上げた。白井はこの脚本を気に入り、犬塚に同作品の監督も命じた。こうして『稚児の剣法』は犬塚の監督デビュー作ともなった。また、犬塚は同作品のカメラマンとして、杉山公平の撮影助手を務めていた円谷英二を登用した。こうして『稚児の剣法』は、当時としては珍しい新人で固められた映画となった。この監督デビュー作は松竹の宣伝が功を奏したこともあって大ヒットし、以後犬塚も売れっ子監督として、阪妻プロや第一映画、松竹などを転々とする。
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