脚本家から監督へとは? わかりやすく解説

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脚本家から監督へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 05:43 UTC 版)

犬塚稔」の記事における「脚本家から監督へ」の解説

1901年明治34年2月15日東京府東京市浅草区現在の東京都台東区花川戸生まれ台湾台北市少年時代を過ごす。父は『劇団新派』の前身一つとされる成美団』の座付作家大須賀豊(本名犬塚福太郎)だが犬塚が五歳の時に死別した成人して台北銀行(※犬塚本人回想では台湾銀行)に就職するが、演劇興味持ち退職演劇作家になるべく東京戻ろうとするが、途中京都出会った白井信太郎から映画脚本家になることを強く勧められ1924年大正13年1月松竹下加茂撮影所脚本部に入社賀古残夢野村芳亭などの監督作品の他、衣笠貞之助監督した前衛映画狂つた一頁』(1926年)の脚本なども手掛けた1927年昭和2年)、新人俳優長丸(後の長谷川一夫)を松竹キネマ現在の松竹)がスターとして売り出すことになった白井売り出す面白チャンバラ映画脚本明日までに書いてくれと切り出し犬塚は何とかこれを3日伸ばしてもらい、の「林長二郎改名映画デビュー作『稚児の剣法』の脚本3日書き上げた白井はこの脚本気に入り犬塚同作品の監督命じた。こうして『稚児の剣法』は犬塚監督デビューともなったまた、犬塚同作品のカメラマンとして、杉山公平撮影助手務めていた円谷英二登用した。こうして『稚児の剣法』は、当時としては珍しい新人固められ映画となった。この監督デビュー作は松竹宣伝功を奏したこともあって大ヒットし、以後犬塚売れっ子監督として、阪妻プロ第一映画松竹などを転々とする。

※この「脚本家から監督へ」の解説は、「犬塚稔」の解説の一部です。
「脚本家から監督へ」を含む「犬塚稔」の記事については、「犬塚稔」の概要を参照ください。

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