映画『座頭市』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:20 UTC 版)
「座頭市 (2003年の映画)#製作」も参照 ビートたけしの映画監督としての第11作、初の時代劇となる『座頭市』(2003年公開)も、斎藤の依頼により企画されたものである。座頭市シリーズは本来は勝新太郎による作品であり、斎藤は勝の没後も『座頭市』を失いたくはなかった。他の俳優によるリメイクを考案したものの、勝の存在感が強すぎ、勝を超えるものにはならないと考えていた。そこで、たけし主演による新しい『座頭市』というアイディアが出たたのである。当初は、たけしは主演のみで、監督は三池崇史を想定していたが、やがて主演・監督共にたけしとの考えに至った。たけしが監督であれば日本国外でも通用するとの考えもあった。勝が1990年に経営難から映画化権を手放しており、斎藤は映画化権を持っていなかったため、勝プロダクションの伝手を辿って権利を買い戻し、たけしへの依頼に臨んだ。 2000年前の初夏、斎藤は勝の三回忌でたけしに会い、『座頭市』の撮影を依頼した。たけしもやはり勝のイメージが強く、「いくらおかあさんの頼みでも」「とてもじゃないけど」と、一度は断った。たけしは「簡単に手を出せる人じゃないし、日本から逃げようと思った」という。しかし斎藤は諦めきれず、後日たけしを食事に誘い「これから頼みごとをするけど、絶対にいやと言わないでね」「はいと言って」と念を押した上で、勝の真似ではなくたけしなりの『座頭市』を、たけしの好きなように製作するという条件で、半ば強引に首を縦に振らせた。たけしは同意したものの、監督のみ引き受けたものと勘違いしており、後に監督・主演の両方の依頼だと知って仰天したという。 「たけしの好きなように」との条件の通り、『座頭市』は主人公が金髪、タップダンサーチームのSTRiPESが劇中でダンスを披露、大衆演劇の若手女形である橘大五郎を抜擢、コント仕立ての場面など、前作のリメイクではなく、「盲目で居合の達人」という設定以外はまったく異なる作品となった。橘の起用も斎藤の縁であり、たけしが斎藤の勧めで2002年に「浅草がんばろう会」を観劇し、橘の踊りを見て興味を抱いたという。 斎藤は撮影前に、たけしと一緒に勝の墓参りに行き、「これから『座頭市』をやります。いい作品ができますように」と報告した。斎藤はたけしにより映画の企画者とされ、クレジットタイトルやポスターにも「企画 斎藤智恵子」と入れられた。もっとも斎藤自身の弁によれば、斎藤は依頼をしただけで、資金を出したわけでもなく、やったことといったら、おにぎりを作って撮影所に差し入れしていたくらいだという。ロック座の振付師に映画のチケット50枚を売るよう命じ、「全部売れた」と売上の封筒を差し出されたものの、斎藤は「着物を買う足しにしな」と受け取らなかった。映画の大ヒットで1億円を超す配当があったが、斎藤は「次の作品の足しにしてください」と、受け取りを断った。たけしが譲らなかったことから、結局は受け取ったという。 こうして製作された『座頭市』は大ヒット作となり、2003年に第60回ヴェネツィア国際映画祭で特別監督賞を受賞した。後に斎藤は「やっぱり『座頭市』は私の財産です」と涙ながらに語っていた。
※この「映画『座頭市』」の解説は、「斎藤智恵子」の解説の一部です。
「映画『座頭市』」を含む「斎藤智恵子」の記事については、「斎藤智恵子」の概要を参照ください。
- 映画『座頭市』のページへのリンク