映画化権
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1952年、原作者サミュエル・テイラーは原作の戯曲『麗しのサブリナ』をメイン州で書き上げてクリスマス後にニューヨークへ戻った。当時のブロードウェイでは映画会社が映画化できそうな作品を探しに、スカウトマンを送り込んでおり、彼らは舞台の製作前から映画化権を買っていた。原作戯曲の『麗しのサブリナ』もその中の1本であった。ヘプバーンの伝記などで、ヘプバーンが『麗しのサブリナ』の舞台を見て映画化権を買って欲しいとパラマウントに言った、という記述があるものがあるが、それは間違いで、実際には舞台よりも映画の方が先行している。 ビリー・ワイルダーと原作者サミュエル・テイラーは1953年3月から共同で脚本を執筆していたが、サブリナ役にはオードリー・ヘプバーンが決まっていたので、テイラーはヘプバーンをイメージして脚本を書いていった。 最初の打ち合わせで、ワイルダーはストーリーを変えていいかテイラーに尋ねていた。テイラーは異存はなかったものの、戯曲を書き直す気もなかったため、映画と舞台では異なったストーリーになっている。 8月には舞台版「麗しのサブリナ」のリハーサルが始まるため、2/3ほど完成した段階でサミュエル・テイラーは脚本から離れてしまう。そのためビリー・ワイルダーはアーネスト・レーマンを呼び寄せ、残りの部分を執筆させた。
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映画化権
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「暗くなるまで待って (映画)」の記事における「映画化権」の解説
『風と共に去りぬ』の映画化をデイヴィッド・O・セルズニックに勧めたケイ・ブラウンはメル・ファーラーの友人であり、オードリー・ヘプバーンにフレデリック・ノットの新作『暗くなるまで待って』の戯曲を送っていた。ヘプバーンは休暇中にまだ読まれていない出演依頼の脚本を山のように持ってきており、その中に『暗くなるまで待って』のものもあった。気晴らしに読んだヘプバーンの夫メル・ファーラーはその本を気に入り、ヘプバーンにも読んでもらい、その日の午後にはヘプバーンのエージェントのカート・フリングスに電話をしている。フリングスは1965年6月(ヘプバーンは『おしゃれ泥棒』の撮影前)にワーナー・ブラザースと交渉を開始した。ワーナー・ブラザースは乗り気で、まだブロードウェイで上演されないうちに100万ドルで映画化権を買った。 ワーナーの製作部長のウォルター・マッキューエンは1965年6月24日、ジャック・L・ワーナー宛の手紙に「もし『暗くなるまで待って』をオードリー・ヘプバーンで進めるつもりならば、できるだけ早くそれを公表してほしいとオードリー側が言ってきている。『マイ・フェア・レディ』の二の舞を避けたいからだ。ブロードウェイで主役を演じる女優が舞台で大成功を収めれば、ブロードウェイの女優の持ち役をまたしても横取りしたと言われかねない。それは望んでいない。」と書かれていた。1965年7月12日には契約が成立している。
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