映画化権トラブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:49 UTC 版)
「復讐するは我にあり」の記事における「映画化権トラブル」の解説
映画化をめぐっては、トラブルが発生している。黒木和雄、深作欣二、藤田敏八が映画化を申し入れ、黒木とは2回、深作と藤田とはそれぞれ1回ずつ会い、その際にどの監督にも了承の印象を与えて、口約束ではあるが佐木から承諾されたと主張しており、後から正式に契約を交わした今村プロが映画化権を得たことに抗議。ただ、いずれも手付け金や契約のサインはなかったという。 黒木監督は脚本に中島丈博、主演に原田芳雄を起用して松竹配給を企画して、佐木からは新宿の飲み屋では約束でOKされたとし、黒木監督による映画化を『報知新聞』がスクープとして報道。一方、深作監督は東映でアクション映画調で撮ろうという構想で、同社の日下部五朗が佐木夫妻を京都に招いて接待。藤田監督はホリプロダクションで動き、東宝も五明忠人と藤井浩明の両プロデューサー、大映は徳間康快社長が映像化権の争奪に参加していたという。結局、『神々の深き欲望』の評価や作風が決め手となり、窓口である講談社と佐木が今村と井上和男プロデューサーと正式契約し、1977年の正月映画として公開予定と発表。野坂昭如が主役に立候補した。 これに対して、黒木は告訴も辞さないとコメントし、深作と藤田も許せないと怒り、1976年3月に黒木、藤田、深作の友人の劇作家の内田栄一(藤田作品の常連脚本家であり、佐々木が属する新日本文学会のメンバーでもあった)の3人が佐木と話し合い、佐木が今村プロとの契約を白紙撤回する旨の念書を書くことになった。今村プロ側は、契約書で1976年に2年間の期限付きで1977年1月公開予定としており、契約を白紙撤回する念書に法的効力はないとした。 また、深作監督が撮る予定だった東映の日下部五朗は、「映画化権を得たものの岡田茂(東映)社長から、『もう実録ものはアカン!そんな連続殺人犯みたいな暗い話、当たるか!そんな原作、どっかに行って売って来いと怒鳴られた」と話しており頓挫した。日下部は榎津を『ジョーズ』に見立て、観客が「榎津が来た!次はこいつが殺られる!」とハラハラドキドキさせるホラー映画を構想していたと話している。 藤田監督も映画化の意欲が失せたということで、そのまま今村プロによって映画化された。 後年、1980年に佐木隆三が発表した『海燕ジョーの奇跡』が深作欣二が映画化権を取得して日本国外でロケハンまでするも流れる経緯を経て、藤田敏八により1984年に映画化された。クランクインした1983年に佐木は藤田敏八、内田栄一と会食し、『復讐するは我にあり』のトラブルを和解したという。 この映画化トラブルは、週刊誌などでスキャンダルとして報道された。佐木とはお互いの無名時代の知己でもあった作家の筒井康隆は、自作『アフリカの爆弾』に複数の映画関係者から映画化の申し入れがありながら、その後は何の音沙汰もなかった自分の経験を振り返り、「一方的に佐木を責めるわけにはいかんのではないか」と佐木に同情する言葉を残している。畑正憲も口約束で契約をする当時の映画界の慣習を批判し「ちゃんとした契約書を取交し、映画化原作料の半金でも支払っているなら大騒ぎしたって構わないけれど、そうでなければ、近代的な商取引とは言い難い」と、佐木を擁護するエッセイを書いている。
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