映画史家としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 映画史家としての意味・解説 

映画史家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 03:51 UTC 版)

田中純一郎」の記事における「映画史家として」の解説

1902年明治35年12月3日群馬県新田郡生品村(のち新田郡新田町、現:太田市新田地区)で出生大正初年上京し東京市神田区(現:東京都千代田区)の旧制中学校に通う。映画夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父表明すると、学業半ばに同市日本橋区(現:中央区日本橋)の糸屋に奉公出されてしまう。奉公先の主人簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館入ってしまうような映画狂(シネフィル)で、映画雑誌によく投稿していた。当時投稿仲間には、芥川三(のち飯島正)、古川緑波がいた。1919年大正8年)に、全世界流行したスペイン風邪罹患死線さまよっている。 東洋大学在学中批評家としてデビューした卒業まもない1925年大正14年)に、雑誌映画時代』を、1930年昭和5年)に雑誌キネマ週報』を各・創刊編集参加した第二次世界大戦中東宝映画在籍し地方巡回映画上映などを手がけ、1940年昭和15年)から1943年昭和18年)にかけ地方巡回しながら、幻の撮影技師土屋常吉足跡追った終戦後は『キネマ旬報編集長日本大学芸術学部講師歴任した1957年昭和32年)に、代表作日本映画発達史第1巻活動写真時代」、第2巻無声からトーキーへ」、第3巻戦後映画解放」を中央公論社上梓1966年昭和41年)に、『日本映画発達史』等の執筆による功労により藍綬褒章受章 1965年昭和40年)から1967年昭和42年)にかけ、『キネマ旬報』誌に『秘稿日本映画』を連載する1968年昭和43年)に、続編日本映画発達史第4巻史上最高の映画時代」を上梓同年12月1日、「映画の日特別功労賞受賞1976年昭和51年7月中公文庫版で『日本映画発達史第5巻映像時代到来」を上梓(他も改訂再刊)、同シリーズ完結をみた。同年、『日本映画発達史』全5巻評価され日本映画ペンクラブ賞を受賞した1985年昭和60年12月松竹創業90年際し大著松竹九十年史』を編む。同書は、新藤兼人指摘拠れば経営者視点にのみ拠るものではなく第二次世界大戦中での松竹は、時代遅れであった事実触れ客観的な評価下しているという。 1989年平成元年3月26日死去。満86歳没。晩年東京都練馬区南大泉に居を構え都心銀座地区での試写出向くために電車定期券常時携帯していた。

※この「映画史家として」の解説は、「田中純一郎」の解説の一部です。
「映画史家として」を含む「田中純一郎」の記事については、「田中純一郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「映画史家として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「映画史家として」の関連用語

映画史家としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



映画史家としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの田中純一郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS