映画史家として
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1902年(明治35年)12月3日、群馬県新田郡生品村(のち新田郡新田町、現:太田市新田地区)で出生。 大正初年に上京し、東京市神田区(現:東京都千代田区)の旧制中学校に通う。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、学業半ばに同市日本橋区(現:中央区日本橋)の糸屋に奉公に出されてしまう。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうような映画狂(シネフィル)で、映画雑誌によく投稿していた。当時の投稿仲間には、芥川柳三(のち飯島正)、古川緑波がいた。1919年(大正8年)に、全世界で流行したスペイン風邪に罹患、死線をさまよっている。 東洋大学在学中に批評家としてデビューした。卒業後まもない1925年(大正14年)に、雑誌『映画時代』を、1930年(昭和5年)に雑誌『キネマ週報』を各・創刊編集に参加した。 第二次世界大戦中は東宝映画に在籍し地方巡回の映画上映などを手がけ、1940年(昭和15年)から1943年(昭和18年)にかけ地方巡回しながら、幻の撮影技師土屋常吉の足跡を追った。終戦後は『キネマ旬報』編集長、日本大学芸術学部講師を歴任した。 1957年 (昭和32年)に、代表作『日本映画発達史』第1巻「活動写真時代」、第2巻「無声からトーキーへ」、第3巻「戦後映画の解放」を中央公論社で上梓。1966年(昭和41年)に、『日本映画発達史』等の執筆による功労により藍綬褒章を受章 1965年(昭和40年)から1967年(昭和42年)にかけ、『キネマ旬報』誌に『秘稿日本映画』を連載する。 1968年(昭和43年)に、続編『日本映画発達史』第4巻「史上最高の映画時代」を上梓。同年12月1日、「映画の日」特別功労賞を受賞。 1976年(昭和51年)7月、中公文庫版で『日本映画発達史』第5巻「映像時代の到来」を上梓(他も改訂再刊)、同シリーズの完結をみた。同年、『日本映画発達史』全5巻が評価され、日本映画ペンクラブ賞を受賞した。 1985年(昭和60年)12月、松竹の創業90年に際し、大著『松竹九十年史』を編む。同書は、新藤兼人の指摘に拠れば、経営者の視点にのみ拠るものではなく、第二次世界大戦中での松竹は、時代遅れであった事実に触れ、客観的な評価を下しているという。 1989年(平成元年)3月26日、死去。満86歳没。晩年は東京都練馬区南大泉に居を構え、都心・銀座地区での試写に出向くために電車の定期券を常時携帯していた。
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