第二次世界大戦終戦後
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「ネリス空軍基地」の記事における「第二次世界大戦終戦後」の解説
飛行場は終戦直後の1945年9月に運営が中止されたが、1948年3月に、新たに組織化されたアメリカ空軍によって再び運営が開始した。1950年4月30日には、基地名は現在の「ネリス空軍基地」に変更された。その後起こった朝鮮戦争に合わせ、P-51、F-80、F-86の訓練基地、また新型機の試験、評価も行うこととなった。 1956年6月1日には、アメリカ空軍の曲芸飛行隊、サンダーバーズがネリス空軍基地に移転する。移転に伴い、サンダーバーズ運用機もF-100 スーパーセイバーに変更された。1960年にはさらにF-105 サンダーチーフへ機種転換されたが、配備後すぐに1日で2機が墜落するという大事故が発生したため、再びF-100へ機種が戻されている。 1966年には、アメリカ軍における空戦研究の統一を機に、「戦術戦闘機兵器センター」(Tactical Fighter Weapons Center)が開設した。 1969年にサンダーバーズは、長年に渡って運用してきたF-100を退役させ、F-4Eへ機種転換した。またF-4Eも、1974年にT-38に機種転換している。 1980年頃には模擬空戦大会、レッドフラッグを基地で開始した。レッドフラッグはネリス空軍基地で現在も行われている。 1990年代に入るとネリス空軍基地は、新型の戦闘機、YF-22の試験プログラムを行う基地に選定され、各種試験が行われる事となった。 2006年11月14日、アメリカ空軍は1970年代から1980年代に至るまで、ロシア(旧ソビエト連邦)のミグ製戦闘機を研究目的で使用していたという情報を、機密扱いから外し公表した。MiG-17、MiG-21やMiG-23などの戦闘機を仮想敵役として運用していたという。また、MiG-29もネリス空軍基地で運用していた可能性もでている。 2007年4月23日にネリス空軍基地は、約570m2に70,000個のソーラーパネルを設置する、新たな発電システムの計画を開始した。ソーラーパネルは基地西側に設置され、2008年頃まで完成する予定である。18MWの発電量が、基地の約25%の消費電力を補うとしている。
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第二次世界大戦終戦後
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「在日朝鮮人文学」の記事における「第二次世界大戦終戦後」の解説
「金達寿」も参照 「許南麒」も参照 「金素雲」も参照 「安宇植」も参照 1950年代は金達寿が『玄海灘』や「朴達の裁判」で芥川賞候補となった。また張斗植は『鶏林』、『現実と文学』での連載を経て、『ある在日朝鮮人の記録』(1966年)に自らの体験をまとめた。 1960年代にかけて李殷直の『濁流』、金石範の『鴉の死』、金達寿の『太白山脈』が発表された。「またふたたびの道」で群像新人賞を受賞した李恢成は『砧をうつ女』で第66回芥川賞を受賞した。1980年代に入って李丞玉、金秉斗らは韓国文学の翻訳・紹介を行った。詩人の崔華国は『猫談義』を書いた。 金石範は1998年に巨編『火山島』の全7巻を完結させた。また李恢成は長編『百年の旅人たち』(1994年)で、一世を日本の植民地支配の被害者でありながら二世に被害をもたらす加害者でもあるとして描いた。『ナビ・タリョン』(1982年)によって文壇にデビューした李良枝はソウルに留学した体験から『由煕』(1988年)を書き、共同体の抑圧性や確固たるアイデンティティーの存在に疑問を投げかけ、これにより1988年度下半期芥川賞を受賞した。また鷺沢萠も韓国への語学留学の体験をエッセイ集『ケナリも花、サクラも花』(1994年)にまとめ、中編小説『君はこの国を好きか』(1997年)で、在日出自の留学生の韓国体験と受容を批評的に描いた。 デビュー作『凍える口』で日本人と朝鮮人の両者からのナショナル・アイデンティティの強制を描いた金鶴泳は『郷愁は終り、そしてわれらは―』(1983年)を書いた後、1985年1月4日に自殺した。劇作をしていた柳美里は1994年に『石に泳ぐ魚』で小説家としてデビュー、『家族シネマ』で1996年度下半期芥川賞を、『フルハウス』で泉鏡花文学賞および野間文芸新人賞を受賞した。また玄月も『蔭の棲みか』で1999年度下半期芥川賞を受賞した。『タクシードライバー日誌』(1984年)を書いた梁石日は『族譜の果て』(1989年)、『血と骨』(1996年)などで凄まじい家族史を描いている。任展慧は長年の研究成果を博士論文『日本における朝鮮人の文学の歴史―1945年まで』(1994年)にまとめた。 姜信子は『ごく普通の在日韓国人』(1987年)を書いた。自らのバックグラウンドをコリアン・ジャパニーズとし、「従来の在日文学では自分のアイデンティティの危機は救われなかった」と語った金城一紀は、2000年に『GO』で直木賞を受賞した。 2016年には崔実が「ジニのパズル」で群像新人賞を受賞し、芥川賞候補にもなった。 2017年には金村詩恩が、韓国へのヘイトサイト事件を契機として『私のエッジから観ている風景』を出版した。
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