第二次世界大戦終戦時の朝鮮の政治状況
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「朝鮮戦争」の記事における「第二次世界大戦終戦時の朝鮮の政治状況」の解説
第二次世界大戦中の連合国会談によって、降伏後の日本が朝鮮半島を含む海外領土の統治権を放棄することは既定方針であり、1945年7月26日に発表されたポツダム宣言においてもその方針は明らかにされていた。 8月9日に行われたソ連軍の日本と満州国への侵略に伴う、日本領の朝鮮半島への侵攻という事態に直面し、アメリカはソ連に38度線での分割占領案を提示した。この境界線はアメリカ陸軍のディーン・ラスクらによって30分間で策定されたものであり、アメリカ軍占領域にその後大韓民国の首都ソウルとなる京城府が含まれる事も考慮されていた。日本国政府は8月14日にポツダム宣言受諾を連合国に通告、日本の降伏が決定された。 ソ連軍はアメリカによる朝鮮半島分割占領案に8月16日に合意し、翌17日には一般命令第一号として、38度線以北の日本軍はソ連軍に、以南はアメリカ軍に降伏させることが通知された。合意を受けてソ連軍は8月16日以降に朝鮮半島内への本格的侵攻を開始、27日には新義州に至った。 9月2日、日本は降伏文書に署名、正式に降伏。この際に一般命令第一号は日本側に伝達され、大本営は朝鮮半島に駐留していた日本軍に対し、一般命令第一号に従って降伏するよう通告した。 日本統治下の朝鮮半島内では独立運動を志向する諸勢力も存在はしたが、独立志向組織はむしろ朝鮮半島外にあり、その勢力は小さく、亡命先での活動が主だった。大きく分けると中華民国上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動家などが挙げられるが、それらはいずれも朝鮮半島の住民から大きな支持を得るに至らず、その影響力は限定的なものであった。 このような情勢ゆえに日本降伏時、朝鮮全土にわたって独立建国に向かう民意の糾合は全く醸成されておらず、日本統治からの突然の「解放」は、あくまで連合国軍により「与えられた解放」であった。朝鮮人が自らの力で独立を勝ち取ることができず、独立運動の諸派が解放後、それも数年間にわたり激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた。
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