第二次世界大戦終戦から閉園まで
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「楽々園遊園地」の記事における「第二次世界大戦終戦から閉園まで」の解説
1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下に伴い、本社要員を楽々園遊園地にも避難させた。1945年(昭和20年)8月6日から1946年(昭和21年)8月30日まで広島電鉄の本社が置かれていた。 1947年(昭和22年)7月1日から1951年(昭和26年)3月26日まで有限会社楽々園が委託して運営を行った。その後、一時期は本社の直営になった後、1957年(昭和32年)10月1日から広電観光に賃貸され、経営を移管。1960年(昭和35年)4月より広電観光から分離独立した、広電楽々園が運営していた。 その間、旧・五日市町は周辺町村と合併し、1955年(昭和30年)4月1日に新・五日市町に移行した。 戦時中および戦後まもなくは衰退していたが、昭和30年代(1955年から1965年)には、新規施設として観覧車やジェットコースター、ゴーカート、ウオーターシュート、プラネタリウムなどが整備され、、夏にはプールが営業した。温浴施設は、戦後「楽々園スパー」と呼ばれるようになった。それらの施策により、第二次世界大戦前に匹敵する程の賑わいを見せた。 1957年(昭和32年)12月には、閑散期対策として、「楽々園スパー」と電車運賃を割り引く施策を実施。好評だったため、1958年(昭和33年)4月に割引を通年化した。 1960年(昭和35年)3月19日にオープンしたプラネタリウムは、中国地方初かつ大型の施設で、千代田光学精工製が設置。国産一号機とされた。またプラネタリウムの付属施設として、翌1961年(昭和36年)5月に、楽々園天文台が設置された。設置当時は広島県内最大の直径25cmの反射赤道儀が設置された。 1964年(昭和39年)から秋の催し物に加え、春の催し物も始まり人気を集めた。秋の催し物も長年「菊人形展」がよく行われていたが、マンネリ打破のため、前年の1963年(昭和38年)には「菊の忍者展」として、忍者を菊人形で作成。伊賀の忍者館より歴史的資料を借りて展示し、「菊の忍者展」は大盛況だった。来場者数も増加し、年間60万人を突破した年もあった。 1964年(昭和39年)、埋め立ての進行により海水浴場は閉鎖。その代替施設として、同年に閉園後もしばらく営業する「パラダイスプール」が開園した。新しいプールは、鬼ヶ島一帯を整備。総水面面積が約1,000坪(約 3,306 m2)の、大小3つのプールを整備した。プール内にはクジラの形をした滑り台が設置された。同年より開始した「臨海土地造成」で、元々海水浴場があった場所が埋め立て、造成された。 1966年(昭和41年)には、楽々園駅舎内に、喫茶店「楽々園パーラー」が営業を開始。1969年(昭和44年)に、増改築の上で、お好み焼き・寿司・焼肉を扱う「レストラン楽々園」にリニューアルし、遊園地閉園後もしばらく営業を続けた。 1969年(昭和44年)11月からは「パラダイスプール」に、開業当時日本一のテント式屋根方式のスケートリンクを設営し、「楽々園スケートリンク」として営業。翌シーズンも営業した。その他オフシーズンには、ローラースケート場やアーチェリー場として営業していた時期もあった。 しかし、夏場および休日以外の来場者は少なく経営に支障を与え、1962年(昭和37年)以降来客数は減少。1970年(昭和45年)の秋頃から冬頃にかけて開店休業状態に陥り休園。1971年(昭和46年)8月31日に閉鎖された。 閉園までに約1200万人の入場者が訪れた。
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