第二次世界大戦終結、そしてソビエトへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 09:00 UTC 版)
「ヒューゴ・シュマイザー」の記事における「第二次世界大戦終結、そしてソビエトへ」の解説
1945年4月3日、アメリカ軍はズールの占領を開始した。その間ドイツ国内では武器・兵器の製造は完全に禁止された。ヒューゴ・シュマイザーと彼の弟ハンスは、アメリカ・イギリスのシークレットサービスの武器研究チームにより拘束され、いままで生産してきた武器・兵器について数週間尋問をうけた。そして 1945年6月の末に、アメリカ軍はズールの都市から一切の兵器製造企業をとりのぞいた。 1か月後、ズールに進駐してきたソビエト赤軍は地域の整備をはじめた。そしてソビエト軍は自国の武器開発を進めるために一般人による兵器製造計画を始め、1945年8月までに赤軍はそれまでにドイツで製造されていたMP40やStG44を組み立て、研究を開始、その時に10785枚に至る銃器設計図を研究の一部として没収している。1945年10月に、ヒューゴ・シュマイザーは赤軍に拘束され、ソビエト軍の新しい武器開発を続けるように命じられた。 自身をソビエト赤軍に印象づけたシュマイザーは後に他のドイツ人銃技師とともにソ連国内に配置が命令された。1946年10月24日に、ヒューゴ・シュマイザー他ドイツの銃専門家は、南ウラル山脈のイジェフスクに配置された。そこでシュマイザーはソビエト軍の武器開発をはじめのちのAKライフルなどに負けない銃器を開発していった。 ヒューゴ・シュマイザーは1946年から1952年にかけてイジェフスクでの研究を行い、他の銃技師がドイツに帰る中、彼は最後まで研究を続けさせられた。そして1952年6月9日にようやくズールに帰ることができ、1953年12月9日に彼は肺炎のため亡くなった。彼の遺体はズールの墓地に埋葬されている。 ヒューゴ・シュマイザーは20世紀を通して国際的に知られる銃技師だった。だが当時のドイツ国内においてはあまり知られていない。彼の死後、ドイツにおける最も重要な技術的なデザイナーのうちの1人と認められ、没日にはズールで記念式典が現在でも行われている。
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