第二次世界大戦終結 - 冷戦終結までのアメリカの人権政策
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1945年11月-1948年12月、軍事裁判で連合国の人道犯罪を無視。アメリカ政府(トルーマン大統領・民主党)は他の連合国政府とともに、ニュルンベルク裁判、極東国際軍事裁判では、ドイツや日本が戦争を起こした罪、戦時下の捕虜や民間人の生命や自由を侵害した人道犯罪は訴追し有罪にしたが、アメリカ軍の日本本土空襲、広島市への原子爆弾投下、長崎市への原子爆弾投下、ドレスデン爆撃、モンテ・カッシーノ爆撃、ソ連軍のフィンランド侵攻、リトアニア、ラトビア、エストニア、モルドバへの軍事侵攻と併合、カティンの森事件、シベリア抑留、非占領地住民の強制移動、兵士による強姦、その他の捕虜や民間人の生命や自由を侵害した大多数の人道犯罪は不問にした。 1948年12月、集団殺害罪の防止および処罰に関する条約に署名。アメリカ政府(トルーマン大統領・民主党)は、集団殺害罪の防止および処罰に関する条約(Convention on the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide)に署名した。 1949年12月、1949年のジュネーヴ諸条約 (1949年)に署名。アメリカ政府(トルーマン大統領・民主党)は、陸上の軍隊の負傷者と病人の条件の改善のためのジュネーブ条約(Geneva Convention for the Amelioration of the Condition of the Wounded and Sick in Armed Forces in the Field)、海上の軍隊の負傷者と病人と遭難者の条件の改善のためのジュネーブ条約(Geneva Convention for the Amelioration of the Condition of Wounded, Sick and Shipwrecked Members of Armed Forces at Sea)、戦争捕虜の取り扱いに関するジュネーブ条約(Geneva Convention relative to the Treatment of Prisoners of War)、戦争時の民間人の保護に関するジュネーブ条約(Geneva Convention relative to the Protection of Civilian Persons in Time of War)に署名した。 1951年6月、難民の地位に関する条約に未署名。国連総会は難民の地位に関する条約(Convention relating to the Status of Refugees)を採択した。アメリカ政府(採択時から歴代の大統領は、トルーマン・民主党、アイゼンハワー・共和党、ケネディ・民主党、ジョンソン・民主党、ニクソン・共和党、フォード・共和党、カーター・民主党、レーガン・共和党、ブッシュ・共和党、クリントン・民主党、ブッシュ・共和党、オバマ大統領・民主党、トランプ大統領・共和党)は、2018年11月時点で未署名である。 1954年5月、公立学校における学生の人種分離の違憲判決。アメリカ最高裁判所は、公立学校における学生の人種分離は、分離した施設が本質的に不平等なため、アメリカ合衆国憲法修正第14条に定める「平等保護条項」(Equal Protection Clause)に違反するとして、違憲判決を下した。この判決により、法律上の人種差別は、アメリカ合衆国憲法修正第14条(法の下における平等保護条項)に違反するとの判例が確立され、1896年のプレッシー対ファーガソン裁判における「分離すれど平等」という先例を覆し、少なくとも法律上の差別(de jure segregation)は解消された。 1955年8月、ジュネーブ条約を批准。アメリカ議会上院(民主党が多数派)は、陸上の軍隊の負傷者と病人の条件の改善のためのジュネーブ条約(Geneva Convention for the Amelioration of the Condition of the Wounded and Sick in Armed Forces in the Field)、海上の軍隊の負傷者と病人と遭難者の条件の改善のためのジュネーブ条約(Geneva Convention for the Amelioration of the Condition of Wounded, Sick and Shipwrecked Members of Armed Forces at Sea)、戦争捕虜の取り扱いに関するジュネーブ条約(Geneva Convention relative to the Treatment of Prisoners of War)、戦争時の民間人の保護に関するジュネーブ条約(Geneva Convention relative to the Protection of Civilian Persons in Time of War)を批准した。 1956年11月、公共交通機関における人種差別の違憲判決。アメリカ最高裁判所は、公共交通機関における人種隔離を定めたアラバマ州法とモンゴメリー市条例に対して、アメリカ合衆国憲法修正第14条に定める「平等保護条項」(Equal Protection Clause)に違反するとして、違憲判決を下した。この判決により、公共交通機関における人種差別を禁止することになる。更には、この判決を得るきっかけとなった黒人のバス・ボイコット運動の成功により、キング牧師はこれを契機として、全米各地での公民権運動を指導、非暴力直接行動と市民的不服従をかかげ、1963年8月28日、ワシントン大行進で25万人を集めた抗議集会を開催。アメリカの黒人運動は最高潮に達し、1964年の公民権法成立につながった。 1963年6月、同一給与法の制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、同一の質と量の労働に対して性別による差別を禁止する、同一給与法(Equal Pay Act of 1963)を制定し、ケネディ大統領(民主党)が署名して成立した。 1964年7月、1964年の公民権法を制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、人種、皮膚の色、宗教、出身地、家族・家庭・家系などの本人の素質・努力・能力の範囲外の、出生時に決定される社会的属性による差別を禁止する、1964年の公民権法(Civil Rights Act of 1964)を可決、ジョンソン大統領(民主党)が署名して成立した。 1965年7月、雇用機会均等委員会を設立 アメリカ政府(ジョンソン大統領・民主党)は、1963年の同一給与法(Equal Pay Act of 1963)、1964年の公民権法(Civil Rights Act of 1964)に基づいて、その後に制定された、1967年の雇用における年齢差別禁止法(Age Discrimination in Employment Act)、1990年のアメリカ障害者法(Americans with Disability Act)も含めて、雇用における差別の予防・解消により雇用機会の均等を推進する、雇用機会均等委員会(Equal Employment Opportunity Commission)を設立した。 1965年7月、1965年の社会保障法の制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、65歳以上の人、身体障害者、特定の病気の患者、自営業の低所得者が加入できる公的医療保険制度(Medicare , Medicaid)、1965年の社会保障法(Social Security Act of 1965)を可決し、ジョンソン大統領(民主党)が署名して成立した。 1966年、アファーマティブ・アクションの制度化。アメリカ政府(ジョンソン大統領・民主党)は、政府の事業の契約者および政府から補助金を受けた機関に対する義務付け、民事裁判による命令、民間法人の自主的な行為として、職場・学校において地域の人種構成比に応じた雇用率・入学率を達成するための計画を義務付ける(アファーマティブ・アクション、社会的・歴史的経緯による差別・機会不均等を積極的に是正する措置)大統領行政命令を公布した。 1966年6月、尋問される容疑者に、黙秘権を行使できること、また弁護士を雇うことができることを忠告しないことに対して違憲判決。アメリカ最高裁判所は、、自己負罪に対するアメリカ合衆国憲法修正第5条の特権は、法を執行する役人が拘留されて尋問される容疑者に、黙秘権を行使できること、また弁護士を雇うことができることを忠告することを要求していると判断し、黙秘権を行使できること、また弁護士を雇うことができることを忠告せず、強要された自白内容を根拠に有罪判決を言い渡すことを違憲と判断した。この判決により、警察は、「ミランダ警告」として知られる告知を逮捕時に行うことを義務付けた。 1966年9月、人種差別撤廃条約に署名。アメリカ政府(ジョンソン大統領・民主党)は、あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(ICERD)に署名した。 1966年12月、自由権規約の第1選択議定書に未署名。国連総会は市民的・政治的権利に関する国際規約の選択議定書(ICCPR-OP1)を採択した。アメリカ政府は、大統領が民主党でも共和党でも、2018年12月時点で署名していない。 1967年6月、ヴァージニア州の異人種間結婚を禁じる法律の違憲判決。アメリカ最高裁判所は、1883年のペイス対アラバマ州の判決を覆して、ヴァージニア州の反異人種間混交法である1924年人種統合法について、アメリカ合衆国憲法修正第14条の平等保護条項に反していると判断し、違憲と判決した。この判決により、アメリカ合衆国における人種に基づく結婚規定を全て終わらせた。 1967年10月、雇用における年齢差別禁止法を制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、40歳以上の人に対する雇用、給与、一時解雇、差別、仕事の制限、定年退職制度を禁止する、年齢による雇用差別禁止法(Age Discrimination in Employment Act)を可決し、レーガン大統領(共和党)が署名して成立した。 1968年4月、1968年の公民権法を制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、住宅の販売と賃貸に関して、人種、皮膚の色、宗教、出身地、家族・家庭・家系などの本人の素質・努力・能力の範囲外の、出生時に決定される社会的属性による差別を禁止する、1968年の公民権法(Civil Rights Act of 1968)を可決、ジョンソン大統領(民主党)が署名して成立した。 1968年11月、難民条約の議定書に加盟。アメリカ政府(ジョンソン大統領・民主党)は、難民の地位に関する条約の議定書(Protocol relating to the Status of Refugees)に加盟した。 1972年6月、死刑の違憲判決。アメリカ最高裁判所は、死刑はアメリカ合衆国憲法修正第8条が禁止する残虐な刑罰に相当する違憲であるか、相当しない合憲であるかについて争われ、 死刑を違憲判決した。但し、結論として違憲判決を出したものの、法廷意見や相対多数意見を形成できず、裁判官全員が個別に意見を述べる異例の判決となった。その効力は直接的には本件で問題となったジョージア州法等に限定されていたが、その年から1976年までの約4年間全米で死刑制度が廃止された。 1973年1月、妊娠中絶の合憲判決。アメリカ最高裁判所は、妊娠中絶は妊娠している女性が自分の意志で自由に決定できると判決した。 1975年11月、障害者個人教育法を制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、視力障害、聴覚障害、言語障害、学習障害、精神遅滞、情緒障害、自閉症、外傷性脳損傷、他の健康障害を持つ障害者に対する適切な教育を無料で提供することを規定し、障害児ひとりひとりに対する個別教育計画が教師や親の参加で計画され、計画に基づいて教育が実践されることを義務づけた障害者個人教育法(Individuals with Disabilities Education Act)を可決、フォード大統領(共和党)が署名して成立した。 1975年4月、ジュネーブ条約を批准。アメリカ議会上院(民主党が多数派)は、戦争捕虜の取り扱いに関するジュネーブ条約(Geneva Convention relative to the Treatment of Prisoners of War)を批准した。 1976年7月、死刑の合憲判決。アメリカ最高裁判所は、死刑はアメリカ合衆国憲法修正第8条が禁止する残虐な刑罰に相当する違憲であるか、相当しない合憲であるかについて争われ、犯した罪の重大性と比較して過剰でない条件付で合憲判決した。判決後、死刑制度が復活し、翌1977年から死刑の執行も再開された。また、この判決が出された同日に、他に死刑に関する4つの判決があったが、それらの判決より、加重事由や減軽事由といった死刑宣告の恣意性を排除するために死刑の宣告機関に指針を設ける州法の規定は合憲判決を下し、その一方で、減軽事由を考慮することなく、特定の犯罪類型を犯した者について絶対的に死刑を科する州法の規定は違憲という判決も下した。それ以後も、執行方法によっては残虐であるとして違憲とされたケースが有る。 1977年6月、ジュネーブ条約の追加議定書に未署名。国連総会は国際的武力紛争の被害者の保護に関するジュネーブ条約の追加議定書(Protocol Additional to the Geneva Conventions and relating to the Protection of Victims of International Armed Conflicts)、国際的でない武力紛争の被害者の保護に関するジュネーブ条約の追加議定書(Protocol Additional to the Geneva Conventions and relating to the Protection of Victims of Non-International Armed Conflicts)を採択した。アメリカ政府は歴代の民主党の大統領も共和党の大統領も署名せず、2007年8月時点で未署名である。 1977年6月、成人女性に対する強制性交罪で犯人に死刑を科すことに対して違憲判決。アメリカ最高裁判所は、成人女性に対する強姦罪で犯人に死刑を科すのは過大な刑罰であり、アメリカ合衆国憲法修正第8条により違憲であると判決した。しかし、この後にも子供に対する強姦で死刑を科す法律が存在し、2008年のケネディ対ルイジアナ州事件で、人に対する犯罪は殺人を伴わない全ての場合において死刑が違憲であると判決され、コーカー判決の対象範囲が拡大された。 1977年12月、社会権規約に署名。アメリカ政府(カーター大統領・民主党)は、経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(ICESCR)に署名した。アメリカ議会上院(署名時からの歴代の多数派は、署名時1977年12月-1981年1月3日は民主党、1981年1月4日-1987年1月3日は共和党、1987年1月4日-1995年1月3日は民主党、1995年1月4日-2007年1月3日は共和党、2007年1月4日-2009年1月3日は民主党)は、2007年8月時点で未批准である。 1977年12月、自由権規約に署名。アメリカ政府(カーター大統領・民主党)は、市民的・政治的権利に関する国際規約(ICCPR)に署名した。 1978年2月、1978年の外国諜報監視法を制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、アメリカ合衆国を武力で攻撃する可能性がある外国の軍事組織または民間の武装勢力の構成員・協力者に対して、裁判所の令状により通信の傍受を容認する1978年の外国諜報監視法(Foreign Intelligence Surveillance Act of 1978)を可決し、カーター大統領(民主党)が署名して成立した。 1980年7月、女子差別撤廃条約に署名。アメリカ政府(カーター大統領・民主党)は、女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(CEDAW)に署名した。アメリカ議会上院(署名時からの歴代の多数派は、署名時-1981年1月3日は民主党、1981年1月4日-1987年1月3日は共和党、1987年1月4日-1995年1月3日は民主党、1995年1月4日-2007年1月3日は共和党、2007年1月4日-2009年1月3日は民主党)は2017年12月時点で、トランプ大統領になっても未批准である。同時点で、こどもの権利条約も未批准である。 1982年7月、ニューヨーク州のポルノ規制の合憲判決。アメリカ最高裁判所は、、児童ポルノは表現の自由を保障したアメリカ合衆国憲法修正第1条が保護する対象に当たらず、猥褻性の有無にかかわらずその頒布を規制することができると判断し、ニューヨーク州のポルノ規制に対して、合憲判決を下した。これにより1984年、アメリカ議会(上院は共和党、下院は民主党が多数派)は猥褻でない児童ポルノにまで頒布規制を拡大した。 1986年6月、心神喪失状態にある者に死刑執行することに対して違憲判決。謀殺罪で有罪とされ死刑判決を受けた死刑確定囚が、その後心神喪失状態に陥り,死刑の意味がわからない状態になった。フロリダ州知事がFordの死刑執行命令書に署名したことから、Fordの弁護人が人身保護令状を請求した事案であった。アメリカ最高裁は、死刑執行時に心神喪失状態にある者に対する死刑執行は修正8条に違反するとし、違憲判決した。。 1987年4月、人種差別に基づく恣意的な死刑適用がなされているとの訴えに対して否定し、合憲判決。統計調査(バルダス調査)により、白人より黒人の方が多く死刑適用されていることを根拠にして、ジョージア州の人種差別的な死刑運用が修正8条、同14条に違反すると主張した。アメリカ最高裁判所は、人種差別的意図または目的の根拠が必要であるところ、被告人は調査研究に基づき自己に対する死刑宣告が差別に基づくものであるという推論を示しているに過ぎず、自身の事件に対して死刑を判断した者が差別的目的を持っていたことを証明していない。また、ジョージア州が差別目的を持って行動したとの証明もなされていないことなどから、平等保護条項違反の主張に理由はないこと。死刑の修正8条適合性判断に関する先例の判断を確認した上で、量刑段階で陪審に指針を与え、かつ、下級裁判所の死刑判決に対しては自動的に上級裁判所が再審理を行う手続の内容からすると、法律上の規定は死刑制度における裁量の重要性と、その裁量の濫用を極小化するものであることから、ジョージア州の死刑宣告制度は修正8条に違反しない。手続において人種的偏見を最小化するように安全装置が策定されていること、刑事裁判制度において陪審裁判は人種的偏見から刑事被告人の生命や自由を基本的に保護してきたこと、そして裁量が刑事被告人に利益を与えていることからすると、統計調査は本件の量刑判断に人種が介在したことを証明しているとはいえないとして、被告人に対する死刑の人種差別的適用を否定して、ジョージア州法の規定を合憲判決した。 1986年10月、移民改革管理法を制定。アメリカ議会(上院は共和党、下院は民主党が多数派)は、移民改革管理法(Immigration Reform and Control Act 2006)、通称シンプソン・マッツォーリ法(Simpson-Mazzoli Act)を可決し、レーガン大統領(共和党)が署名して成立した。移民改革管理法はアメリカへの不法移民・滞在者を減少させるために、不法滞在者を故意に雇用した雇用主に罰金刑を科すとともに、1982年1月以後アメリカに不法に滞在し雇用されている不法滞在者に1年間の恩赦を与え、アメリカの市民権を申請することを可能にした。その結果270万人の不法滞在者が合法滞在者になった。 1988年4月、拷問禁止条約に署名。アメリカ政府(レーガン大統領・共和党)は、拷問・他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約(CAT)に署名した。 1988年6月、犯行時16歳未満の未成年に死刑を科すことに対して違憲判決。殺人を犯した15歳の少年に対して,陪審はオクラホマ州法上の加重事由が認められることから死刑を宣告した事件で,16歳未満の者を死刑にするオクラホマ州法の規定の憲法適合性が問題となった。アメリカ最高裁判所は、修正第8条「残虐かつ異常な刑罰」の判断基準である「社会の成熟度を示す品性という発展的な基準」を用いて、立法動向と陪審の態度、応報・犯罪抑止力という刑罰目的の観点から検討を加えて、違憲判決を出した。 1988年10月、1988年の市民の自由法を制定。アメリカ議会(上院・下院とも民主党が多数派)は、第二次世界大戦中に強制収容所に収監された日系アメリカ民に対して、被害者一人あたり20000ドルを賠償する、1988年の市民の自由法(Civil Liberties Act of 1988)を可決し、レーガン大統領(共和党)が署名して成立。アメリカ政府は日系人強制収容は自由に対する重大な侵害であったと認め謝罪した。 1988年12月、集団殺害罪の防止および処罰に関する条約を批准。アメリカ議会上院(民主党が多数派)は、集団殺害罪の防止および処罰に関する条約を批准した。 1989年6月、精神遅滞者に死刑を科すことに対して合憲判決。強姦殺人を犯した被告人 Penry はIQが54で精神年齢6歳半程度という、軽度の精神遅滞者(知的障害者)であった。テキサス州裁判所はこの被告人に死刑を言い渡した。連邦最高裁は、この被告人に死刑を科すことが修正8条の「残虐かつ異常な刑罰」に当たるか否かを判断するに際し,同条「残虐かつ異常な刑罰」の判断基準である「社会の成熟度を示す品性という発展的な基準」を用いて、2つの州しか精神遅滞者に対する死刑を禁止しておらず,精神遅滞者の処罰反対についての国民的合意があるという十分な証拠が存在しないこと、また、刑罰の均衡の観点から、精神遅滞も多様でありその有責性も個々に判断できるのであって、全ての精神遅滞者が一律に死刑を執行しうる程度の有責性を持つ行為をするわけではないとして、合憲判決した。 2002年6月のアトキンス対バージニア州判決が出るまで、精神遅滞者に死刑を科すことに対して合憲状態が続いた。 1989年6月、犯行時16歳以上の者に死刑を科すことに対して合憲判決。強盗・殺人を犯した16歳の少年の事件と強盗・強姦・殺人を犯した17歳の少年の事件で死刑の適否に関する判断が、連邦最高裁判所によって出された。州の陪審はこれらの少年に死刑を宣告して下級審で死刑判決が出され、州最高裁もその死刑判決を維持したのに対して、被告側がアメリカ最高裁に上告した事件である。そこでの争点は、16歳および17歳の少年に死刑を科することが修正8条に違反するか否かであった。アメリカ最高裁は、Coker判決、Enmund 判決、Ford 判決等の諸判決でそれぞれ問題となった。成人女性を強姦した者、殺人の幇助をしたに過ぎない者、心神喪失者に対する死刑は、ほとんど、あるいは、全ての州で認められていないことから修正8条違反を導いたと説明した。その上で、16歳以上の者に死刑を科することについては、死刑を認める多数の州でこれを容認していることから、合憲判決した。また、2005年5月にローパー対シモンズ判決が出るまで16歳と17歳の未成年に死刑を科すことについては合憲の状態が続いた。 1989年12月、自由権規約第2選択議定書採択(米国未署名)。国連総会は、自由権規約の第2選択議定書(死刑廃止議定書)を採択した。アメリカ政府は、2018年11月時点で未署名である。
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