1988年度(逸見・安藤時代)
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「FNNスーパータイム」の記事における「1988年度(逸見・安藤時代)」の解説
フリーアナウンサーとなった逸見政孝と上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科を卒業し、それまで金曜日、土日版を担当した安藤優子の全曜日担当に変更。 1988年4月2日 - 土日版のアンカーマンに黒岩祐治(当時記者)が登板。アシスタントに小田多恵子(当時記者)、スポーツコーナーは筒井櫻子アナウンサーが担当。 1988年7月9日 - 筒井が降板。 1988年7月16日 - 土日版のスポーツコーナーに塩原恒夫アナウンサーが登板。 1988年7月16日・17日 - 『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島'88』が放送され本番組も『スーパータイムデラックス』として放送。司会は同番組総合司会のタモリと『FNNスピーク』の露木茂が担当。スポーツコーナーは塩原恒夫と笑福亭鶴瓶が務めた。福岡県小呂島からの中継で当時九州産業大学の学生・松村邦洋が登場。この時に片岡鶴太郎と出会い芸能界に入るきっかけとなった。また黒岩は東京上空から中継リポーターを務めた。 1988年9月17日 - 10月2日 - ソウルオリンピックが開催。9月27日には競泳男子100m背泳ぎで金メダルを取った鈴木大地選手がゲスト出演。 1988年11月17日 - 逸見政孝が本番前に控室で倒れ緊急入院し、番組を3日休む。フリーとして本格的な活動を始めた直後のストレスが原因であった。当時『FNN DATE LINE』を担当していた上田昭夫(当時記者)が代役として出演。 1989年3月31日 - 逸見政孝が降板。1978年10月からスタートした『FNNニュースレポート6:30』から足掛け10年半にわたる活躍だった。降板後はフリーアナウンサーだけではなくタレントとしても活躍。 1989年4月2日 - 塩原恒夫が降板。スポーツ実況に専念。
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1988年度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 20:53 UTC 版)
「NHKモーニングワイド」の記事における「1988年度」の解説
この年度は7時までは衛星第2テレビ、7時以降は衛星第1テレビで放送していた(後者は『ワールドニュース』の一部として放送)。BSは7:30で飛び降り。6:00 オープニング・ニュース 6:10 ローカルニュース・天気予報 6:15 にっぽん列島ピックアップ(前半パート、『にっぽん列島朝いちばん』を引き継いだ農漁村向けの情報コーナー) 6:30 ヘッドライン(ニュース・経済情報・天気予報) 6:34 ローカルの天気予報 6:37 にっぽん列島ピックアップ(後半) 6:48 スポーツ 6:53:30 全国の天気予報 6:55 ローカルニュース・天気予報 6:59:55 時報 7:00:03 オープニング・ニュース・海外のニュース・経済情報・スポーツ 7:30 - 7:50 ローカルニュース枠(首都圏はニュース・天気予報・交通情報、7:35以降は中継・リポートとニュース・天気予報) 7:50 海外のニュース 8:00 ニュース・列島中継 1989年1月7日の昭和天皇の危篤・崩御の当日放送では、NHKニュースとして放送して、NHKモーニングワイドとしては休止であった。
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1988年度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 07:02 UTC 版)
前年度とは一転して著しい不振に陥り、順位戦は2勝8敗で初めての降級点、前期に続き4組で参加した竜王戦ではランキング戦・昇級者決定戦を連敗し、翌年度の残留決定戦に回らざるを得なくなった。 しかしながら、プロ2年目の有望株として棋界関係者から注目されていた櫛田陽一に2連勝する(11月11日・第54期棋聖戦及び1989年2月13日・第15期棋王戦)など、それなりの見せ場は作った。
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