1988年最高国民協議会総会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/25 14:16 UTC 版)
「ベニー・ムルダニ」の記事における「1988年最高国民協議会総会」の解説
1988年にはすでにムルダニとスハルトの関係は険悪になっていた。ムルダニはスハルトに忠誠を誓っていたが、体制内に蔓延る汚職やネポティズム(身内びいき)のことでは、断じて大統領を批判した。それ以来、ムルダニはスハルトの娘婿プラボウォ・スビアントをも敵に回した。 1988年は、正副大統領を選出する最高国民協議会 (MPR) 総会が開催される重要な年であった。3月の総会が近づくにつれ、スハルトはスダルモノ(当時のゴルカル総裁、退役陸軍中将)を副大統領にするというサインを送り始めた。プラボウォと近い関係にあるキヴラン・ゼンによれば、これは自分自身が副大統領になりたいムルダニにとって逆風だった。こうした副大統領候補選出をめぐる動きが、1988年2月、ムルダニの国軍司令官解任の理由だったようだが、オーストラリアの政治学者ロバート・エルソンによると、ムルダニ解任のさらなる大きな理由は、スダルモノが副大統領に任命された時に、ムルダニが国軍を支配する地位にいて欲しくないとスハルトが考えていたことである。エルソンは、スダルモノが副大統領に就任できるかどうかは、大統領選そのものを左右する最終ステップだった、との説を述べている。 ムルダニは諦めてはいないようだった。同じ月にゴルカル幹部が集まって、MPR 総会のことを話し合った。副大統領候補の問題について、ゴルカル内の執行部と機能代表の各派はスダルモノ指名で一致していた。しかし、ゴルカル内の国軍会派では、ムルダニが副大統領候補指名の件についてスハルトと話し合っていないと言って引き延ばし続けたので、国軍会派から誰を副大統領候補に推すか、決断が遅れていた。圧力を受けたムルダニは、さしたる理由も挙げられないまま、スダルモノの副大統領指名には懸念があると表明した。ある段階では、トリ・ストリスノ(ムルダニの後任として国軍司令官に就任)が副大統領候補に指名されるべきだ、という潜在的なシグナルを発し始めた。トリの方ではそれに乗らず、他の将校達とともに渋面のムルダニを説得した。国軍会派がスダルモノを副大統領候補にするつもりであることをムルダニも納得せざるを得なかった。 ムルダニが論議を巻き起こしてスダルモノの副大統領候補指名に難癖をつけ続けたことについて、多くの人々がムルダニに責任があると思っていた。また、イブラヒム・サレー准将がスダルモノを攻撃したことや、開発統一党 (PPP) 議長 ナロ を副大統領候補に指名するという画策は、ムルダニの仕業ではないか、と思われていた。そんなことがあったにもかかわらず、最終的にはスハルトの意思が貫かれ、スダルモノが副大統領に選出された。
※この「1988年最高国民協議会総会」の解説は、「ベニー・ムルダニ」の解説の一部です。
「1988年最高国民協議会総会」を含む「ベニー・ムルダニ」の記事については、「ベニー・ムルダニ」の概要を参照ください。
- 1988年最高国民協議会総会のページへのリンク