1988年憲法の前の土地改革
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「土地なし農民運動」の記事における「1988年憲法の前の土地改革」の解説
ブラジルにおける土地改革は長い歴史を持ち、MSTに先行している。 20世紀半ば、ブラジル左派グループは、民主化と広範な政治利権の実質的な行使には土地改革が必要であるという合意に達した。ブラジルの政治エリートは、彼らの社会的および政治的地位を脅かす土地改革に積極的に反対した。このため地方貧困層の政治指導者たちは、草の根的活動を通じて、下から土地改革を試みた。 MSTは土地改革そのものに取り組むことによって、あたらしい地平を獲得した。「党、政府、その他の機関とのそれぞれの関係を壊す」ことにより、社会的、倫理的、または宗教的ではなく純粋に政治的な観点から問題を構成した。 1850年9月18日、独立後のブラジルにおける土地所有を規制する最初の法律、土地不動産法(Lei de Terras)が発効された。それ以前のポルトガルの封建法に基づいた植民地支配時代は王からの授与(セスマリア)と長子相続制(morgadio)であり、これを改正した。独立したブラジルの州では、土地を取得するための手段は、州または以前の私有の所有者からの購入によるものであった。この法律は不法占拠者の権利を厳しく制限し、土地所有権の集中をもたらし、現代まで続くブラジル社会の特徴となった。土地不動産法(Lei de Terras)は階級の高い人々への巨大な土地補助金による大規模な土地保有(奴隷たちが働いていた)を好む植民地的慣習を残した。 資本主義は政策のため数の限られた大規模な土地所有者を支持したが、同時に農民が自給自足や小規模農業を営むのに必要な土地を確保することを困難にした。土地所有をほんの少数の手ににぎらせることは、ブラジルにおける資本主義の出現と関連していた。そして19世紀から20世紀初頭の反乱(1890年代のカヌードス戦争や1910年代のコンテサンド戦争)はブルジョア以前の所有の在り方を理想化させ、イデオロギーを再活性化させた。このイデオロギーはカトリック組織外にある宗教的リーダーによって支持され、異端で革命的だった。1963年のフランス人ジャーナリストのルイ・ファコの著作によれば、ブラジル北東部の20世紀初頭の暴動と救世主主義(メシアニズム)が土地資産の不均等な分配などの社会的不平等に対する抗議となっていたとされる。この理論は、エリック・ホブズボーグの1959年の「原始的反乱」を中心に英語圏の学者のあいだで発達した。「社会運動」の定義が曖昧だと批判されたが、一方で、別々に検討されていた政治と宗教の運動を融合したことが称賛された。この融合がのちにMSTの出現の基礎となった。 1930年代後半にはメシアニズムと長子相続の両方が消滅したが、1940年代と50年代には農民の抵抗が強まり、所有者を追い出して、土地を手に入れるようになった。 1948年、テオフィロ・オトニ、ミナスジェライス 1951年、ポレカトゥ、パラナ 1957年、南西パラナ 1952-1958年、トロンバス、ゴイアス しかし、これら地方での事件は、鎮圧されるかそのまま和解され、イデオロギー的な高揚を引き起こさなかった。政策立案者や学者は経済的必要性からブラジル農村経済の機械化と強制的な都市化を信じていた。特に左派は、技術的に後退した封建的な大土地経営が経済の近代化と民主化の両方を妨げていると感じていた。 1960年代、いくつかのグループは法制度に則った農地改革を試みた。それはブラジル北東部の農民連合から始まり、借用農地からの立ち退きと農地の牧場への転換に反対した。彼らは財産への合理的な訴求を通じて、既存の土地所有権の分配に疑問を呈した。だが、これらのグループの努力にもかかわらず土地所有は集中し続け、現在に至るまでブラジルは力強く堅牢な農業経済を保つ一方で農村部の貧しい人々の巨大な犠牲も払っている。 MSTは、1850年のブラジルの土地開発がひとつの階級、すなわち「農村ブルジョアジーの利益」に関係してきたことを踏まえ、 社会経済的な観点から政策を策定しているとするが、カヌードス(バーイア州)は千年主義(メシアイズム)であり神秘主義だと主張している。 初期MSTの組織化の大部分は、カトリックコミュニティーからもたらされた。 MSTのイデオロギーと実践はカトリック教会の「私有財産は社会的機能を果たす必要がある」とする教義に因る。この教義は19世紀に生まれ、ローマ教皇レオ13世時、回勅「レールム・ノヴァールム」によってカトリックの教義となる。1964年の軍事クーデターの前夜、リオデジャネイロでの決起集会でジョアン・グラール大統領(João Goulart )はMST的な教義を呼びかけ、政治的、社会的な「改革の青写真」を示し、道路、鉄道、貯水池、衛生設備などの連邦施設600ヘクタール以上の敷地の収用を提案した。結果、これらのアイデアは激しい保守の反発を招き、グラール大統領の権力喪失につながった。それにもかかわらず、ブラジルのカトリック教会は、正式に1980年の原則を認めている。 ブラジル憲法の歴史の中で、(資源の公共管理、自然の観点からの) 土地改革が最初に明示的に言及されたのは1967年の憲法で、この時政府の基本理念とされた。それは1964年のクーデターの後での独裁的なコンセンサスを制度化しようとしていた。 軍事独裁政権は、土地改革政策を利用して、大土地経営者と農村のプロレタリアとの間に保守的な小規模農家の緩衝地帯をつくることを意図していた。1969年、独裁政権が最も抑圧的な時点、アルトゥール・ダ・ コスタ・エ・シルヴァ大統領が病床に伏せている間、暫定軍事政権によって、1967年の憲法改正がなされた。 土地改革のために収用された財産に対する政府の補償を認める。 この賠償は、以前は唯一の法的慣行であった現金ではなく国債で行われる(第157条―§1、制度法第9号、1969年改正)。
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