19世紀から20世紀初頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 15:08 UTC 版)
「搾取工場」の記事における「19世紀から20世紀初頭」の解説
搾取工場ことスウェットショップとは、特に(当時の欧米における)アパレル産業の工場や作業場を指し、そこでは手工業の作業員が劣悪な状況や多くの健康リスクがある中で長時間にわたり非常に低賃金で雇用されていた。 歴史を通じて多くの職場は人で溢れかえり、賃金は低くて雇用安定がない。ただし、スウェットショップという概念は1830-1850年の間に初めて生じたもので、搾取者(sweater)と呼ばれる仲介業者が困難な状況下での衣装製作を他者に指示する特殊な形の作業場として始まった。仲介業者を指す「搾取者(sweater)」や出来高払いの下請け工程を指す「搾取方式(sweat system)」といった用語は、1850年に英国ロンドンの状況を記述したチャールズ・キングズリーの初期批評『Cheap Clothes and Nasty』などで使用されるようになった。この搾取方式(洋服仕立屋の下請け)のために作られた作業場がスウェットショップと呼ばれ、そこでは作業員が数人だけだったり、多いと300人以上収容している場合もあった。 1832年から1850年にかけて、(服飾下請けの)スウェットショップは農村部の貧困層を急成長している都市部へと招き入れ、移民たちをロンドンやニューヨーク市の衣料品地区に招き入れた。これらのスウェットショップは批判を受けた。労働団体の指導者らは、人が混雑して換気が悪く、火災やげっ歯類(による感染症等)の蔓延が発生しやすい点を挙げた。多くの場合、小さな借家部屋に沢山の作業員が詰め込まれていた。 1890年代、メルボルンで反搾取国民同盟 (National Anti-Sweating League) を自称する団体が結成され、賃金委員会を通じて最低賃金の運動を成し遂げた。同名の団体が1906年から英国で活動し、1909年の賃金委員会法 (Trade Boards Act 1909) が成立することになった。 1910年、これら作業員の状態を改善しようと国際婦人服労働組合が設立された。 服飾業種のスウェットショップ批判は、職場の安全規制および労働法を背景に大きな勢力となっていった。一部の報道記者が労働条件を変えるべく取り組むにつれて、「スウェットショップ」という用語が条件劣悪と考えられるもっと広い意味の作業場(いわゆる「搾取工場」)を指すようになった。米国では、スキャンダルを追求する調査報道記者がビジネス慣行の暴露記事を書き、先進的な政治家が新たな法律を求めるキャンペーンに出た。搾取工場の状況に関する著名な暴露作品には、ジェイコブ・リースのドキュメンタリー写真集 『向こう半分の人々の暮らし:19世紀末ニューヨークの移民下層社会』や、精肉産業を小説化して描いたアプトン・シンクレアの著書『ジャングル』などがある。 1911年、ニューヨーク市のトライアングル・シャツウェスト工場火災によって搾取工場に対する否定的な社会認識に拍車がかかった。この当時と場所の重要な役割は、ロウアー・イースト・サイドの借家が連なった歴史地区にある博物館 (Lower East Side Tenement Museum) に記録されている。先進国においては、労働組合、最低賃金法、火災安全基準、労働法がスウェットショップ(当初の服飾業下請けという意味)を稀なものにしたが、それが排除されたわけではなく、途上国にある工場でこの用語がますます関わることとなった。
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19世紀から20世紀初頭
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「搾取工場」の記事における「19世紀から20世紀初頭」の解説
最初期の搾取工場批評家の幾人かは、もともと財産奴隷制に反対する際に集まった19世紀の奴隷制度廃止運動に見られ、廃止論者の多くが奴隷制と搾取工場仕事に類似点を見いだしていた。1794年(フランス)から1865年(アメリカ合衆国)にかけて工業国では奴隷制度が相次いで非合法化されたため、一部の廃止論者は搾取工場を含む他の形態の過酷な労働を含むものにまで奴隷制反対の概念を拡張しようと試みた。それが起きたことで、奴隷貿易(1807)と奴隷所有権(1833)が違法とされた後に、搾取工場に対処する最初の重要な法律(1833年の工場法)がイギリスで可決された。 最終的には廃止運動は分裂した。一部の提唱者は労働組合やマルクス主義者や社会主義政治団体(あるいは革新主義運動とスキャンダル追及者)と共に労働条件に焦点を当てて共通原因を見いだした。他の人々は、植民地時代の世界における奴隷貿易および意に反する使役 (Involuntary servitude) に焦点を当てた。奴隷制度に焦点を当てたままの団体にとって、搾取工場が論争の主な対象の一つとなった。経済の複数部門にわたる作業所が搾取工場に分類された。しかし、奴隷制度を構成するものについては根本的な哲学的見解の相違があった。搾取工場の状況に合意することができず、国際連盟や国際連合と協力する廃止論者は、最終的には奴隷制度を定義する取り組みから後退し、代わりに奴隷制共通の先駆けとなる人身売買に焦点を当てた。 労働条件に焦点を当てた人々にはフリードリヒ・エンゲルスがおり、1844年の著書『イギリスにおける労働者階級の状態』が彼の共著者カール・マルクスから命名されたマルクス主義運動を触発することになる。英国では1833年に初めて実効性のある工場法が導入され、労働時間と児童労働の使用を制限することで労働者の状況を改善するのに役立った。しかし、これは繊維工場にのみ適用されたものだった。その後、同法は他の産業工場に保護を拡大したが、1867年までは小規模な作業所の従業員に対して同様の保護がなく、1891年まで職場が住み家となっている場合(搾取工場に多いケース)の法制を効果的に施行することができずにいた。1919年に国際労働機関(ILO)が国際連盟の下で結成され、後に国際連合が世界中の労働者の窮状に対処しようとした。進歩主義時代 (アメリカ合衆国)にスキャンダル追及の報道記者達によって記述された労働条件への懸念は、新たな労働者権利法の可決に至り、最終的にニューディール政策中に可決された1938年の公正労働基準法をもたらす結果となった。
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