19世紀から20世紀初め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:47 UTC 版)
「ニュルンベルク」の記事における「19世紀から20世紀初め」の解説
1796年から1806年まで深刻な事態が出来した。近隣のアンスバッハを拠点としたプロイセン政府の圧力により、遂にニュルンベルクはプロイセン支配下に屈することとなった。しかし、この条約は履行されなかった。ニュルンベルクの借金にプロイセンが手を引いたのである。同時に名門家の堕落した支配体制に対する不満がニュルンベルク住民の間で蓄積していった。こうした事態が帝国都市体制を根本から揺さぶり、この街に革命の機運をもたらしたのであった。 ナポレオン戦争期の1803年2月25日に行われた帝国代表者会議主要決議では、最初はそれでも独立体制を堅持したのだが、ライン同盟が結ばれ、帝国が崩壊した後、フランス軍がニュルンベルクを占領した。1806年9月15日、フランス軍はこの都市をバイエルン王国に引き渡し、ただちに民政の体制を整え、バイエルンの管理下に編入させた。こうして1806年にバイエルン王国は王国全体の借金の一部としてニュルンベルクの莫大な借金を被ることとなった。バイエルンはこれを整理統合して弁済に努めた。バイエルンの法律に基づき、それまでニュルンベルクでは冷遇されていたカトリック信者もプロテスタント信者と法的に同等の立場となった。 19世紀になるとニュルンベルクはバイエルンの工業中心都市の一つとして発展した。1835年にはドイツ初の旅客鉄道アドラー号がニュルンベルクからフュルトまで運行を開始した。19世紀後半にニュルンベルクで黄銅箔が発明された。 戦間期の1920年代にはニュルンベルクで、政権獲得前の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が党大会を開催していた。ただしニュルンベルク自体は選挙でナチス党を勝たせなかった。この都市では自由主義のDDPが有力な政党であった。同時に、工業都市として、バイエルンの社会民主主義の中心地でもあった。
※この「19世紀から20世紀初め」の解説は、「ニュルンベルク」の解説の一部です。
「19世紀から20世紀初め」を含む「ニュルンベルク」の記事については、「ニュルンベルク」の概要を参照ください。
- 19世紀から20世紀初めのページへのリンク