19世紀〜20世紀における完成
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「聖ヴィート大聖堂」の記事における「19世紀〜20世紀における完成」の解説
1844年プラハで開かれたドイツ人建築家の集会で、ヴァーツラフ・ペシーナは、ネオ・ゴシック建築家のヨゼフ・クランナーと共に、大聖堂の改築と完成の目指すプログラムを発表した。同じ年、「プラハの聖ヴィート大聖堂を完成させる連合」が結成され、「すべてが台無しになってスタイルが不調和な」状態からなんとか脱却することをめざした。ヨゼフ・クランナーは1861年から1866年にかけて修復作業のほとんどを指揮し、不必要なバロックの装飾を取り除いて内装を補修していた。 1870年にはついに身廊の土台が新しく作られ、1873年にクランナーが世を去ると、建築家のヨセフ・モッカーが再建を引き継いだ。彼は西のファサードに、典型的な盛期ゴシックの様式で2つの塔を設計し、彼の死後もそのデザインは、3人目にして修復に携わった最後の建築家カミル・ヒルベルトによって引き継がれた。 ゼツェッシオンのチェコの有名画家アルフォンス・ミュシャが、身廊の北部の窓を新しく装飾した。バラ窓は1925年から1927年にかけて、フランティセク・キセラによってデザインされた。この入り口上部のバラ窓は、聖書の創世記のシーンを表している。聖ヴァーツラフの没後1000年に当たる1929年までに、聖ヴィート大聖堂はついに完成した。完成までには約600年が費やされたのであった。大聖堂の西半分全体がネオ・ゴシック時代に追加されたにもかかわらず、ほとんどの修復にはペトル・パルレーシュが開発したデザイン要素を踏襲したため、大聖堂によく調和した統一感がもたらされた。
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