19世紀から1939年
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「サン=ドニ」の記事における「19世紀から1939年」の解説
1806年、ナポレオン1世は法令により、歴代の王たちの埋葬地として献呈された教会を廃止し、司教座から60歳以上の聖職者たちを退去させ、レジオン・ドヌール勲章受章者の娘たちを教育する学校の設置を承認した。 1814年、ナポレオンによるフランス帝国の終焉が迫り、第六次対仏大同盟の軍隊に急襲されたサン=ドニはブルボン家支持を宣言した最初の土地となった。ブルボン家による復古王政後の1815年、サン=ドニは、かつての支援者たるブルボン家の王冠後継者に同様の"愛の印"を贈った。1817年、ルイ18世は、1793年に大聖堂内から取り除かれた王たちの亡骸を元の場所に戻すよう命じた。 1852年、ナポレオン3世は大聖堂内の礼拝堂でサン=ドニ大聖堂の教区司祭と面会した。12世紀から13世紀の年代の教会が、1858年以降聖域として元の状態に回復されたのである。 普仏戦争中の1870年、特にパリ包囲戦時期、サン=ドニは戦略上重要な地であった。サン=ドニはパリ北部の防衛線上に位置していたためである。要塞の一部はほとんどが始終敵からの攻撃にさらされたドゥーブル・クーロンヌ砦だった。砦は包囲戦中に戦火から守り、ピエールフィット、スタン、ル・ブルジェ方面への出撃から防衛していたのである。コミューン内への爆撃で大きな被害があったが、防衛施設への打撃は加えられなかった。 19世紀後半、貿易、工芸、農業が重工業へその場を明け渡した。世紀末にはサン=ドニに80の工場があり、そのうちの最古のものは1784年からある金属加工工場だった。 1896年、最初の自治体選挙が行われ、社会主義者が当選した。(旧)フランス社会党(略称SFIO)の分裂後、1920年代のサン=ドニは左翼のまちとなった。サン=ドニの工業は、ブルターニュやスペイン(特にスペイン内戦時期)からの移民の急増をもたらした。この労働者のまちでは、1930年代の経済危機とともに生活環境がさらに悪化していった。 「 フランス歴代国王たちのまちでは貧困層の割合が高い。4000人以上の失業者がいる。1000人以上のサン=ドニ住民が不衛生な住宅で暮らす。結核患者や幼児の死亡率が記録的に高い。(中略)これは、フランス人民戦線政権の『パン、平和と自由』方針が広く承認されていることを意味する。1936年6月5日、我々のストライキに参加した会社は98社を数えた。 」 とオーギュスト・ギヨは述べている。ストライキから2日後、パリのオテル・マティニョンにて、労働組合とフランス政府の間でマティニョン協定が締結された(休暇の取得、週40時間労働、団体交渉権が認められた)。 1930年まで、共産主義者の市長が選出された。共産主義市長として最後の人物は、ジャック・ドリオで、彼は1934年にフランス共産党から離れている。彼は1937年、フェルナン・グルニエ率いる人民戦線のリストにより罷免された。 サン=ドニは3つの地区に分けられる。 工業地区 - 南部 住宅地区 - 北西部。ナチス・ドイツ占領から解放後、公営住宅が建てられた広大な地域 商業地区 - マルシェ・ホールのある場所。かつては乞食の留置所だった。
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