フランス帝国の終焉とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > フランス帝国の終焉の意味・解説 

フランス帝国の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:45 UTC 版)

フランス第一帝政」の記事における「フランス帝国の終焉」の解説

当初ナポレオンは、フランス軍帝都モスクワ占領することで、皇帝アレクサンドルすぐさま降伏するだろうと予想していた。しかしこのナポレオン安易な予想裏切ったのは、またしてもフランス革命輸出品であった民族主義勃興だった。祖国蹂躙されたことに怒れロシア人は、ロシアフランスに対して抵抗続けるべきであると主張した。また反ナポレオンシンボルとなっていた皇帝アレクサンドルに対して支持強めていた。この支持背景ロシア軍フランス軍への対峙強めていき、またフランス軍周辺農民は対仏ゲリラ戦開始していた。一方思惑外れたフランス軍は、明確な次の軍事目標持てないまま、いたずらにモスクワ滞在伸びてしまい、撤退タイミングを完全に逸してしまうことになった遂に10月フランス軍モスクワ撤退開始するが、遅きに失しており、フランス軍兵士中にはロシア軍農民ゲリラ襲われる者の他に、飢え寒さ死亡する者が続出した12月ナポレオンパリ起こったクーデター未遂により、軍を放置したままパリ帰還してしまうが、この時、すでにロシア遠征開始時に70万と言われフランス軍は完全に壊滅していた。 こうして、ナポレオンロシア侵略ロシア軍の完全な勝利終わったが、これに勢い盛り返したアレクサンドル敗走するフランス軍追撃すべく西へと軍を進めた。これにはプロイセン続きオーストリア皇后マリー・ルイーズの手前、直接軍を合流させることはなかったが、それでもプロイセンロシアに対して好意的な中立へと立場変更させた。 フランス国においてはナポレオン政権は、ナポレオン天才的軍事能力と、彼が戦争に勝ち続けることを政権存続保証としていたことから、ロシアでの大敗ナポレオン政権基盤を揺さぶるには十分であり、12月クーデター未遂の他、政権内部造反徴兵に対して反発相次いで起こった。それでもナポレオンは、1813年夏には軍を再編して、西へと向かうプロイセン・ロシア軍とドレスデン周辺戦い進撃阻止成功した。 しかしこの戦闘停戦交渉において、プロイセン・ロシア軍に再編時間与え、そこへオーストリア軍合流させてしまったことは、フランスにとって決定的な失敗だった。加えてこの期間にナポレオン直接指揮取っている部隊とは正面から当たらないことが徹底されたため、停戦明けライプツィヒの戦いにおいては周辺将軍指揮する部隊から個別撃破され、フランス軍フランス本土向けて撤退余儀なくされた。続く1814年パリ侵攻戦においても連合軍巧み欺瞞工作前にナポレオン指揮するフランス軍主力前線におびき寄せられ、その隙に少数部隊守備するパリへ入城許してしまった。帝国議会ナポレオンの退位求めナポレオン周辺将軍たちも退位勧めたため、ナポレオン抵抗あきらめ4月4日退位文書署名しエルバ島へと配流された。 ナポレオン後のフランスにはブルボン家ルイ18世フランス王即位しフランスにおける王政復古成し遂げた王党派にとっては1792年国民公会によって王権停止され以来念願復権であったが、長年外国暮らし送ってきたルイ18世は、革命進展させたフランスの現状を全く理解できず、アンシャン・レジーム復活企てたため、国民からの評判はまった得られなかった。一方ヨーロッパ列強ナポレオン後のヨーロッパ新秩序決定すべくウィーン会議開いたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたように各国利害対立したまま一向に進展見せことはなかった。こうした状況の隙を突いて起こったのが、1815年ナポレオンエルバ島脱出である。 エルバ島脱してフランス南海岸に上陸したナポレオンの下には、かつての子飼い将軍たちの多く参集したまた、時代遅れルイ18世愛想を付かしたパリ市民兵士もこれを歓迎し瞬く間ナポレオンパリへ入城果たしたナポレオンの突然の復活驚愕した列強各国は、ひとまずウィーン会談纏め上げ、再びナポレオンを法の外に置くことを宣言して彼の押さえ込みかかった連合軍は、ベルギー地方イギリス軍プロイセン軍が、ライン方面北イタリアオーストリア軍展開して広範囲ナポレオン包囲網形成した一方ナポレオン率いフランス軍主力ベルギー方面侵攻しイギリス軍プロイセン軍対峙した。このときイギリス軍率いていたのは初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーであったが、ワーテルローフランス軍会戦になった際に粘り強く方陣維持しプロイセン軍援軍待った一方フランス軍離散していた部隊戦闘に間に合わなかったのに対してイギリス軍にはプロイセン軍合流し反撃転じた。これがワーテルローの戦いである。ナポレオン敗れ再びパリへ敗走した。そして再度退位文書署名させられて、今度赤道直下大西洋孤島セントヘレナ島へと配流され、このナポレオンの完全な失脚により、フランス第一帝政崩壊した(百日天下)。

※この「フランス帝国の終焉」の解説は、「フランス第一帝政」の解説の一部です。
「フランス帝国の終焉」を含む「フランス第一帝政」の記事については、「フランス第一帝政」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「フランス帝国の終焉」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランス帝国の終焉」の関連用語

フランス帝国の終焉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランス帝国の終焉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフランス第一帝政 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS