フランス帝国の終焉
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「フランス第一帝政」の記事における「フランス帝国の終焉」の解説
当初ナポレオンは、フランス軍が帝都モスクワを占領することで、皇帝アレクサンドルはすぐさま降伏するだろうと予想していた。しかしこのナポレオンの安易な予想を裏切ったのは、またしてもフランス革命の輸出品であった民族主義の勃興だった。祖国を蹂躙されたことに怒れるロシア人は、ロシアはフランスに対しての抵抗を続けるべきであると主張した。また反ナポレオンのシンボルとなっていた皇帝アレクサンドルに対しての支持を強めていた。この支持を背景にロシア軍はフランス軍への対峙を強めていき、またフランス軍周辺の農民は対仏ゲリラ戦を開始していた。一方、思惑が外れたフランス軍は、明確な次の軍事目標が持てないまま、いたずらにモスクワ滞在が伸びてしまい、撤退のタイミングを完全に逸してしまうことになった。遂に10月にフランス軍はモスクワ撤退を開始するが、遅きに失しており、フランス軍兵士の中にはロシア軍や農民ゲリラに襲われる者の他に、飢えと寒さで死亡する者が続出した。12月にナポレオンはパリで起こったクーデター未遂により、軍を放置したままパリに帰還してしまうが、この時、すでにロシア遠征開始時に70万とも言われたフランス軍は完全に壊滅していた。 こうして、ナポレオンのロシア侵略はロシア軍の完全な勝利に終わったが、これに勢いを盛り返したアレクサンドルは敗走するフランス軍を追撃すべく西へと軍を進めた。これにはプロイセンが続き、オーストリアは皇后マリー・ルイーズの手前、直接軍を合流させることはなかったが、それでもプロイセンとロシアに対して好意的な中立へと立場を変更させた。 フランス国内においては、ナポレオン政権は、ナポレオンの天才的軍事能力と、彼が戦争に勝ち続けることを政権存続の保証としていたことから、ロシアでの大敗はナポレオン政権の基盤を揺さぶるには十分であり、12月のクーデター未遂の他、政権内部の造反、徴兵に対しての反発が相次いで起こった。それでもナポレオンは、1813年夏には軍を再編して、西へと向かうプロイセン・ロシア軍とドレスデン周辺で戦い、進撃の阻止に成功した。 しかしこの戦闘の停戦交渉において、プロイセン・ロシア軍に再編の時間を与え、そこへオーストリア軍を合流させてしまったことは、フランスにとって決定的な失敗だった。加えて、この期間にナポレオンが直接指揮を取っている部隊とは正面から当たらないことが徹底されたため、停戦明けのライプツィヒの戦いにおいては周辺の将軍が指揮する部隊から個別に撃破され、フランス軍はフランス本土に向けての撤退を余儀なくされた。続く1814年のパリ侵攻戦においても連合軍の巧みな欺瞞工作の前に、ナポレオンが指揮するフランス軍主力が前線におびき寄せられ、その隙に少数の部隊で守備するパリへの入城を許してしまった。帝国議会はナポレオンの退位を求め、ナポレオン周辺の将軍たちも退位を勧めたため、ナポレオンは抵抗をあきらめ、4月4日退位文書に署名し、エルバ島へと配流された。 ナポレオン後のフランスにはブルボン家のルイ18世がフランス王に即位し、フランスにおける王政復古を成し遂げた。王党派にとっては1792年に国民公会によって王権が停止されて以来の念願の復権であったが、長年の外国暮らしを送ってきたルイ18世は、革命を進展させたフランスの現状を全く理解できず、アンシャン・レジームの復活を企てたため、国民からの評判はまったく得られなかった。一方、ヨーロッパ列強はナポレオン後のヨーロッパの新秩序を決定すべくウィーン会議を開いたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたように、各国の利害が対立したまま一向に進展を見せることはなかった。こうした状況の隙を突いて起こったのが、1815年のナポレオンのエルバ島脱出である。 エルバ島を脱して、フランス南海岸に上陸したナポレオンの下には、かつての子飼いの将軍たちの多くが参集した。また、時代遅れのルイ18世に愛想を付かしたパリ市民、兵士もこれを歓迎し、瞬く間にナポレオンはパリへ入城を果たした。ナポレオンの突然の復活に驚愕した列強各国は、ひとまずウィーン会談を纏め上げ、再びナポレオンを法の外に置くことを宣言して、彼の押さえ込みにかかった。連合軍は、ベルギー地方にイギリス軍とプロイセン軍が、ライン方面と北イタリアにオーストリア軍が展開して、広範囲なナポレオン包囲網を形成した。一方、ナポレオン率いるフランス軍主力はベルギー方面へ侵攻し、イギリス軍、プロイセン軍と対峙した。このときイギリス軍を率いていたのは初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーであったが、ワーテルローでフランス軍と会戦になった際に粘り強く方陣を維持し、プロイセン軍の援軍を待った。一方のフランス軍は離散していた部隊が戦闘に間に合わなかったのに対して、イギリス軍にはプロイセン軍が合流し反撃に転じた。これがワーテルローの戦いである。ナポレオンは敗れ、再びパリへ敗走した。そして再度、退位文書に署名させられて、今度は赤道直下の大西洋の孤島セントヘレナ島へと配流され、このナポレオンの完全な失脚により、フランス第一帝政は崩壊した(百日天下)。
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