ナポレオンの退位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/07 06:29 UTC 版)
ナポレオンの退位(ナポレオンのたいい)
- フォンテーヌブロー条約 (1814年)(1814年の退位)
- ナポレオンの退位 (1815年)
ナポレオンの退位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/05 14:20 UTC 版)
「マリア・ヴァレフスカ」の記事における「ナポレオンの退位」の解説
1812年、ヴァレフスキ伯爵の妻でいることが苦痛で耐えられなくなっていたマリアは、7月18日に裁判所に離婚要求の書類を出し、それが8月23日に認められて夫と離婚した。しかし、晴れて自由の身となっても、誰とも結婚しようとはしなかった。彼女が愛しているのはナポレオンだけだった。 その後、ナポレオンの兄弟姉妹たちとナポリで過ごしたりしたこともあった。彼らはみなマリアに好感を抱いた。1813年の春にはジョゼフィーヌから、マルメゾン城に息子のアレクサンドルと共に招待された。彼女はこの対面に気が進まなかったが、ジョゼフィーヌは彼女の人柄に非常に好感を抱き、それからは2人に贈り物をするようになった。ジョゼフィーヌは後にマリアについて、彼女の侍女のアヴリオン夫人の回顧録によると「本質的に性格が良く優しい彼女から、何も苦痛は与えられなかった」と言っている。 1814年、4月6日に皇帝を退位したナポレオンを心配したマリアは、4月13日にフォンテーヌブロー宮殿に駆けつけた。彼女はナポレオンの部屋に通されるのを朝から夜までずっと待っていた。しかし、ナポレオンは部屋で毒薬自殺を図り、ぐったりとしている状態であった。ついにマリアはあきらめ、自分の姿が人に見られてはと黙って帰っていった。同年8月31日にはナポレオンに呼ばれてエルバ島に行ったが、マリー・ルイーズの件があるため、すぐに帰らなければならなかった。 復位の後1815年、ワーテルローの戦いで敗れたナポレオンと最後の別れをするため、6月28日、マリアはアレクサンドルを連れてマルメゾン城を訪れた。マリアは1時間ほどナポレオンと過ごした。そして彼女は涙ながら、セント・ヘレナ島に連れて行って欲しいと言った。
※この「ナポレオンの退位」の解説は、「マリア・ヴァレフスカ」の解説の一部です。
「ナポレオンの退位」を含む「マリア・ヴァレフスカ」の記事については、「マリア・ヴァレフスカ」の概要を参照ください。
- ナポレオンの退位のページへのリンク