ナポレオンへの抵抗と解放戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 15:45 UTC 版)
「フランス第一帝政」の記事における「ナポレオンへの抵抗と解放戦争」の解説
オーストリア、プロイセン、ロシアを屈服させたフランスは絶頂期にあったが、大陸の外ではいまだイギリスが反仏反ナポレオンの立場を固持し続けており、これに対抗すべくナポレオンはロシア遠征中にイギリスの経済的孤立を狙って大陸封鎖令を発動させた。これは当時既に産業革命が勃興し、資本主義経済の世界的中心地となりつつあったイギリスを大陸から切り離したことを意味しており、イギリスを経済的に孤立に追い込むどころか、逆にイギリスという交易相手を喪失した大陸各国の方が経済的に疲弊するという結果になった。 一方で、東への征服を成功させたナポレオンの目は、続いて西側のイベリア半島へと向けられた。当時スペイン王室で起こっていた宮廷内の対立を利用して、1808年フランス軍はスペイン、そしてポルトガルへ侵攻。スペイン王、ポルトガル王は国外へ逃亡し、フランスは両王国を支配したかのように見えたが、民族主義に燃えるスペイン人が反フランスのゲリラ戦を開始した。イギリスもゲリラに加担し、以降フランスはイベリア半島に大軍を常駐しなければならなくなる必要性に迫られた。 こうしてイベリア半島の情勢が不安定になっていくに従って、一度は完膚なきまでに制圧したはずの東側でも動揺が起き始めた。その最初が1809年のオーストリアの反攻である。この反抗は、オーストリアの周辺諸国と連絡不足により、オーストリア軍だけが孤立してフランス軍と当たることになったため、ヴァグラムの戦いでフランス軍はオーストリア軍を撃破し、瞬く間にウィーンを占領した。このオーストリアの態度に対して怒りを覚えた皇帝ナポレオンは、オーストリア皇帝フランツに、フランスに対して二度と背かないことを保障させるために、娘マリー・ルイーズを実質的な人質として、ナポレオンと結婚させることを強引に迫った。 当時、フランス帝国の内政における目下の問題点は、ナポレオンと皇后ジョゼフィーヌとの間に継嗣が存在しないことであり、世襲という連続性で政権の存続と強化を狙う、帝国とナポレオンにとって最も重要な問題であった。また確固たる継嗣の確保は、反革命の防止(具体的にはブルボン朝の復活阻止)のためナポレオンの皇帝即位を支持した国民に対する責務でもあった。ナポレオンはオーストリア占領直後にジョゼフィーヌを離縁し、ロシア皇帝アレクサンドル1世、及びオーストリア皇帝フランツ1世に対して、フランス皇帝との縁談を打診していたが、これにいち早く動いたのはフランスに大敗したばかりのオーストリアであった。1810年ナポレオンとマリー・ルイーズの結婚式が行われ、翌1811年には次期帝位継承者となりフランス帝国の連続を保障する存在と期待されたナポレオン2世が誕生した。 しかし、ナポレオン政権のそれ以上の存続を危惧したロシアは早々にフランスに対しての抗戦を再開し、1812年にはフランス陸軍の元元帥ジャン=バティスト・ベルナドットを摂政王太子とするスウェーデンと連絡して、対フランス戦の準備を進めた。両国は1813年、ティルジット条約を破棄し、交戦状態となった。この時、ロシア軍は侵攻するフランス軍に対して、防戦の一方であった。ボロジノの戦いの激戦も虚しく、遂にこの年の初秋にはモスクワへのフランス軍の入城を許してしまうことになった(ボロジノの戦いの両国における勝敗は実質的にはついていない。ロシア遠征そのものが、ロシアの焦土作戦による撃退戦略であった)。
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