半島戦争及びその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:17 UTC 版)
「ピエール・デュポン (軍人)」の記事における「半島戦争及びその後」の解説
ティルジットの和約の後、フランスに戻り第2軍団長となったジロンド県に駐屯した彼はスペインに派遣された彼は12月26日にビトリア=ガステイスに到着、翌1808年1月12日にはバリャドリッドに到着した。3月10日に彼と19,000人の部隊はハノーファーから出発し4月11日にはアランフエス、24日にはトレド、6月2日にはアンドゥハルに到着した。マクシミリアン・セバスティアン・フォワは当時のことについて半島戦争ではデュポンより階級が上の人物はおらずアンダルシア地方へ彼が出発した際にカディスを占領し元帥杖を授かることを誰もが信じていたという。1808年のナポレオンとカルロス4世、フェルナンド7世との間で行われたバイヨンヌの会談以降、スペインの人民はフランス帝国に対して不満を高め、1808年5月2日にマドリードで蜂起、アストゥリアス、ガリシア、レオン、カスティーリャでも次々と蜂起した。コルドバに進軍していた彼は12,000人の兵と共にスペイン軍40,000人と遭遇しアンドゥハルへ撤退した。彼はそこで貴重な時間を費やしその後バイレーンに赴いたが3万5000人のスペイン兵に包囲されていた。7月19日から続いた4日間の戦いの後、7月23日に2万人の兵とともに降伏した。これは大陸軍初の降伏であったため、ナポレオン1世は「我々の軍旗を汚した」と猛烈に怒り、そして9月21日にトゥーロンに帰国したデュポンを大逆罪で逮捕させた。デュポンは11月15日にパリへ移送された。彼に対しては寛大な処置を求めようとする他の将軍たちもいたが、ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレスはこれを阻止した。彼は大逆罪に問われ、ジューの要塞に投獄されることとなり後にデュレに移された。 1814年、ナポレオンの退位によって釈放されて、5月12日にルイ18世のもとで陸軍大臣に就任した。経済的理由により、10万人の兵士を無期限休職とし、将校たちの身辺調査を実施、ナポレオンへの忠誠心が高い可能性のある1万2000人を給与半減の休職とし、別の職に就くことも禁じた。 12月13日にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトと交代した。百日天下ではオルレアンに避難し、ロワール軍を指揮した。第2次王政復古で再び国務大臣となり、国王枢密院のメンバーとなった。
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