半島方面作戦:1862年3月 - 7月
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「第3軍団 (北軍)」の記事における「半島方面作戦:1862年3月 - 7月」の解説
第3軍団は1862年3月13日に編成され、軍団長はサミュエル・ハインツェルマン(Samuel P. Heintzelman)少将、3個師団編成で各師団長は第1師団がフィッツ・ジョン・ポーター准将、第2師団がジョセフ・フッカー准将、第3師団がチャールズ・ハミルトン(Charles Smith Hamilton)准将であった。編成後直ちに半島方面作戦への参加が命令され、ハミルトンの師団は3月17日に半島南端に上陸し、この歴史的作戦にポトマック軍の先鋒として進んだ。ヨークタウンの包囲戦では軍団の戦力は最大に達し、4月30日の報告では総人員39,710人、軽野砲64門、34,633人が戦闘員とされている。4月30日、フィリップ・カーニーがハミルトンに替わって師団長となり、ハミルトンはミシシッピ軍隷下の師団長に転任した。 ヨークタウン攻略後、ポーターの師団はヨークタウンに留まったが、フッカーとカーニーの師団は撤退する南軍を追跡し、5月5日にウィリアムズバーグの戦いに参加した。この戦闘はほとんど第3軍団のみが戦い、全軍の損害2,239人の内第3軍団のそれは2,002人に達し、その3/4がフッカーの師団であった。中でもエクセルシオール旅団と第2ジャージー旅団の損害が大きかった。5月18日にポーターの師団は第3軍団から離れ、新たに編成された第5軍団へ配属され、ポーター自身は第5軍団長となった。第3軍団はフッカーとカーニーの2個師団のみのとなり、総人員は23,331人、軽野砲34門となった。戦闘人員は18,205人と報告されているが、実際の戦力は17,000人程度であった。 次の戦闘となった5月31日-6月1日のセブンパインズの戦いでは、戦死209人、戦傷945人、行方不明91人という損害を出した。損害は主にカーニーの師団のチャールズ・ジェイムソン(Charles D. Jameson)とハイラム・ベリー(Hiram Gregory Berry)の旅団で生じた。6月には新たに6個連隊が加わり、6月20日時点では総人員27,747人、内兵器が支給された戦闘員18,428人と報告されている。この中には軽野砲40門を含む8個砲兵中隊が含まれる。実際に戦闘が可能な兵員数は17,000人程度と推定される。 第3軍団は七日間の戦いの最初の戦闘である、6月25日のオークグラブの戦いに参加した。続いて30日にはグレンデイル、7月1日にはマルバーンヒルで戦った。一連の戦闘での戦死は158人、戦傷1,021人、行方不明794人、合計1,973人であった。最大の損害を出したのはカーニー師団のジョン・ロビンソン(John C. Robinson)の旅団であり、ベリー旅団の第1ニューヨーク連隊もグレンデイルで大きな損害を出した。
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