東部の戦争
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「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「東部の戦争」の解説
詳細は「東部戦線 (南北戦争)」を参照 当初北軍はアービン・マクドウェル将軍の指揮下に35,000名の軍隊を集めたが、これはその時点まで北アメリカでは最大のものだった。高らかなファンファーレと共にまだ兵隊になり立てで訓練も積んでいない兵士達が、6週間のうちにアメリカ連合国の首都リッチモンドを占領し、戦争を終わらせられるという考えを抱いてワシントンD.C.から出発した。しかし1861年7月21日の第一次ブルランの戦いでは、マクドウェルの軍隊は完璧に打ち破られ、首都ワシントンに逃げ帰ると言う大惨事になった。この戦闘に続く7月26日にジョージ・マクレラン少将がポトマック軍指揮官に就いた。マクレランは、6週間で終わるような戦争ではないことが明らかになったので、打ち砕かれた軍隊の再建を始め、真に戦える軍隊に変えた。ワシントンからの圧力があったにも拘らず、マクレランは1862年3月までは動かず、リッチモンドを占領するために考案した半島方面作戦を開始したときに戦争は本格的になった。この作戦は当初成功したが、その最後の日々に新しく南軍北バージニア軍の指揮官となったロバート・E・リー将軍からの強い抵抗に直面した。6月25日から7月1日にかけての七日間の戦いと呼ばれる一連の戦闘で、リーはポトマック軍を後退させた。マクレランはワシントンに呼び戻され、ジョン・ポープ将軍の下に新しい軍隊が結成された。 8月、リーは第二次ブルランの戦いを行い北軍ジョン・ポープのバージニア軍を破った。ポープは解任され、その軍隊はマクレランの軍隊と合流した。リーはヨーロッパ諸国の認知を得て戦争を終わらせることを期待して、そこからメリーランド州へ侵攻した。両軍は9月17日のアンティータムの戦いで激突した。これはアメリカ史の中でも一日だけの戦闘としては最も流血の多い戦闘となった。このときの北軍の勝利がエイブラハム・リンカーンに奴隷解放宣言を出させる契機になった。これはアメリカ連合国の中にいる全ての奴隷を1863年1月1日付けで解放することを宣言したものだった。これは現実に奴隷制を終わらせたのではなかったが、戦争に意義ある理由を与え、ヨーロッパからの干渉を防ぐことに貢献した。 北軍はアンティータムでの勝利にさらに軍事的に付けこむことができなかった。マクレランは南軍を追撃できず、リンカーン大統領は彼の言い訳や戦う意欲の無さに飽き飽きした。マクレランは10月に解任され、アンブローズ・バーンサイドがその後釜に据えられた。ただしバーンサイドはまだその地位に就く準備ができていないと訴えていた。バーンサイドは北からリッチモンドに迫ろうとしたが、12月13日のフレデリックスバーグの戦いで、塹壕に入った南軍に対して無益な数度にわたる攻撃を命じた後で悲惨な結果に終わった。翌年も北軍にとっては難しい戦況になった。1863年1月にバーンサイドと交代したジョセフ・フッカー将軍も、5月初旬のチャンセラーズヴィルの戦いでリーとストーンウォール・ジャクソンの軍を止められなかった。しかし、リーの2度目の北部侵攻は悲惨な形に変わった。フッカーがジョージ・ミードに挿げ替えられ、その4日後にゲティスバーグの戦いが起こった。この戦闘でリー軍は貴重な戦力を多く失い、その後は2度と元の戦力にまで戻らなかった。ゲティスバーグの後で北軍の指揮官ジョージ・ミードがリー軍を追撃できなかったことに怒ったエイブラハム・リンカーンは新しい北軍指揮官にユリシーズ・グラント将軍を指名した。
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