東部の舌状台地群と、その上にひろがる都心市街
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 02:12 UTC 版)
「武蔵野台地」の記事における「東部の舌状台地群と、その上にひろがる都心市街」の解説
武蔵野台地は、その成因から、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫層が互層しており、この層面から地下水が湧き出し、台地上の中小河川の源流となっていることが多い。台地上に見られる池の多くがこのような成因である。また地名として「清水」を冠していることが多く、さらに、大きな寺社が境内として取り込んだり、名家や武家の庭園になっていた例もある。これらの河川によって武蔵野台地の東部は開析が進んでいて谷が鹿の角のように入り組み、多数の舌状台地が武蔵野台地から削りだされている。 これらの台地にはそれぞれ名前がつけられており、久が原台、田園調布台、目黒台、淀橋台、豊島台、本郷台、成増台、荏原台、赤羽台といった呼称が行われるほか、より細かい区分を行うこともある。たとえば陣内秀信は都心部について、上野台地、本郷台地、小石川・目白台地、牛込台地、四谷・麹町台地、赤坂・麻布台地、芝・白金台地の7台地を数えている。田園調布台・淀橋台・荏原台には下末吉海進で形成された古い地層が残っている(下末吉面)。 武蔵野台地は湧水によって水利が得やすく、また沖積低地のような洪水も避けることができるため、古来から人口は多かったと思われ、多摩川の崖線には古墳時代の古墳や遺跡が多数残されている。武蔵野台地の東端にあたる淀橋台に地の利を見出したのが太田道灌であった。道灌が築城した江戸城(皇居)は、平川と目黒川の間を広くカバーする淀橋台の最東端に置かれ、道灌につづいて江戸に入った徳川家康もまた台地を囲む谷を掘割に利用するなど、地形を巧みに利用している。これらの台地先端は、東側の沖積低地や東京湾岸から見ると、独立した山のように形容された。江戸期までに「飛鳥山」「道灌山」「忍ケ岡(上野山の古名)」「愛宕山」「紅葉山(現・皇居吹上御所付近)」「城南五山」などと呼ばれ、実際に武蔵野台地は上野駅の西側で15m以上の標高差を見せる崖となって終わる。「待乳山」は縄文海進時の波食台が海退後の氾濫原に残った本郷台地の一部である。
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