東部での競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 02:29 UTC 版)
先述したように、ミッドランド鉄道はロンドンから北東部やスコットランドへのすべての輸送を支配下においていた。ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道は湖水地方でゆっくりと建設を進めていた。一方でロンドンとヨークを直接結ぶ路線を建設する圧力もあった。ノーザン・アンド・イースタン鉄道(英語版)がピーターバラからリンカンまで建設する許可を得たが、ようやくケンブリッジまでを完成させることができただけであった。 ミッドランド地方において大きな延長路線としては、ノッティンガムからリンカンまでと、レスターからピーターバラまでがあった。これは計画されていたものではなかったが、ハドソンはこの線を他社への理想的な妨害線とみなした。つまり、こうした都市に鉄道が伸びれば、他の路線を建設するのを正当化するのは難しくなるだろうということである。これらの路線は、直行路線がまだ議会にかけられる前に認可を得て、現在のノッティンガム-リンカン線(英語版)とシストン・アンド・ピーターバラ線(英語版)となった。 リーズ・アンド・ブラッドフォード鉄道(英語版)は1844年に認可を得た。1850年時点でこの鉄道会社は損失を出していたが、多くの鉄道が買収しようとしていた。ハドソンは多かれ少なかれ自身の責任において買収提案をし、これによりミッドランド鉄道は後にセトル-カーライル線となる北部への出口を得ることになった。これに加えて、リーズ・ウェリントン駅というかなり便利な駅も手に入れた。
※この「東部での競争」の解説は、「ミッドランド鉄道」の解説の一部です。
「東部での競争」を含む「ミッドランド鉄道」の記事については、「ミッドランド鉄道」の概要を参照ください。
- 東部での競争のページへのリンク