東郊耕地整理組合長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/22 12:36 UTC 版)
笹原の愛知郡長時代の名古屋市は都市としての発展を遂げつつあり、笹原にとってその隣接地の都市化は明らかであった。笹原は西愛知の五千町歩におよぶ耕地整理計画を立て、町村長らの賛同を得、実施直前まで至っている。しかしその計画は運河建設などを含んでおり、耕地整理の枠を超えた都市開発そのものであった。このため愛知県知事の拒否にあい、笹原は郡長を辞任している。この計画とは別に笹原は関係有力者や名古屋市長らを説得し、1911年(明治44年)に東郊耕地整理組合の発足につなげており、郡長辞任後にその組合長に就任し、民間から土地整理事業を開始する。笹原には耕地整理に名を借りた宅地整備の意図があった。笹原は廃川となった精進川の跡地を事業資産とし、また減歩によって組合員の金銭的負担を減殺して事業を進めた。この減歩の手法は笹原と内務省、農商務省間の3年に及ぶ交渉で認められたと伝わる。笹原は1923年(大正12年)6月に辞任するまで組合長を務め、整理地は1921年(大正10年)に名古屋市に編入された。組合は1934年(昭和9年)まで活動を続け、現在の瑞穂区直来神社に記念碑が残る。
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