東邦高校監督時代
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卒業後の1967年に母校の社会科教諭および野球部監督に就任。当時は中京が愛知県の中で最も強豪校だったため、打倒中京を果たすべく“鬼の阪口”“阪口鬼三”などと恐れられる鬼監督として選手をスパルタ指導で鍛え上げ、愛知の強豪校としての伝統を守る。 1977年の第59回全国高等学校野球選手権大会では、1年生右腕の“バンビ”坂本佳一を擁し準優勝。しかし、坂本在学中の甲子園出場は1年夏が最初で最後となった。78年以降、同校は80年春、85年春夏、86年春に出場するも全て初戦敗退。転機が訪れたのは、久々に初戦突破した1988年。第60回選抜高等学校野球大会で、2年生左腕の山田喜久夫を擁し決勝まで進んだ東邦は、春初出場の宇和島東に敗れ、準優勝に終わる。監督の上甲正典をはじめ、笑顔を絶やさずのびのびとプレーする宇和島東ナインに対し、帰名後に見た同試合のビデオテープに映っていた阪口は鬼の形相であったという(バントを失敗した選手に対してものすごい勢いで怒ったりした)。「こんな顔をしていては選手が萎縮してしまう。」と悟った阪口は、試合中に笑顔を見せるよう努める(最初は手の平に書いた「笑」という文字を見るなどして無理矢理笑っていたらしい)などした結果、翌1989年の第61回選抜高等学校野球大会の決勝戦では元木大介、種田仁らを擁する上宮に延長10回逆転サヨナラ勝ちし、自身初の優勝を決める(サヨナラタイムリーを放った選手が打席へ向かう際に笑顔で打席へ送り出したという)。その試合後のインタビューでは「前年は、私のベンチでのマナーが悪くて優勝を逃してしまった。」と述べていた。しかし、「甲子園出場を決めても労いの言葉をかけてもらえなくなった。」など、学校の姿勢に不満を抱くようになった阪口は2004年7月11日に今夏限りで東邦監督を勇退することを発表した(特別講師という形で学校に残ることもできたが、定年退職という形で東邦高校を去る。)。後任は1977年夏準V時の4番・主将で1984年からコーチを務めていた森田泰弘。
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