東邦電力発足
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市会における政争以外にもこの時期の名古屋電灯(関西電気)を取り巻く内外の環境は悪化していた。事業について見ると、関西電気が発足するころになると名古屋では市街地の膨張に対して供給施設が追いついておらず、供給力不足(水力発電が主電源のため渇水期には特に電力不足であった)や送変電・配電設備の不備から停電が頻発しており、地元の不満が高まっていた。また経理面では、事業資金調達の必要性から株価の上昇を狙って1921年上期の配当率を年率20パーセントに引き上げるという高配当策を採ったことで行き詰まりつつあった。その上、この高配当は1921年上期末時点で全体の6.4パーセントの株式を持つ筆頭株主である社長の福澤自身を利するものとして非難の的にもなった。 1921年11月、福澤桃介は17日付の新聞紙上で関西電気取締役社長を辞すると発表した。副社長下出民義と取締役に復帰していた兼松煕の辞任も同時に発表された。福澤は辞任の理由を、世間では様々な憶測があるようだが、会社の経営が順境なときにその潮時を見計らって辞職するのが自らの主義であるから、関西電気でも経営状態が順境に向かっているためこのを機会に退くのである、と語っている。翌12月23日、関西電気成立後最初の定時株主総会をもって福澤ら3名は辞任し、新たに九州電灯鉄道社長の伊丹弥太郎が新社長に、同社常務の松永安左エ門が新副社長にそれぞれ就任した。伊丹は佐賀の財界人、松永は福澤の慶應義塾時代の後輩で、当時は福岡を拠点に電気事業の経営にあたっていた。経営陣交代の時点で関西電気と九州電灯鉄道の合併は内定しており、25日に両社の間で合併契約が締結された。合併条件は、存続会社の関西電気が九州電灯鉄道の資本金と同額の5000万円を増資して同社株主に対し持株1株につき新株1株を交付する、というものであった。 経営陣交代の経緯は、福澤から引き継いだ松永の回想によると、周囲との対立で行き詰った福澤が状況を打開するために名古屋電灯を関西水力電気と合併させたが、そのようなことでは解決しないところまで事態が悪化していたため、さらなる打開策として九州電灯鉄道と合併させて松永を「ピンチヒッター」としたのだという。福澤自身は後年、伊藤次郎左衛門(松坂屋経営)など名古屋の財界人や憲政会の小山松寿(名古屋新聞社経営)から排斥されたことに対する反抗心から関西への進出を企て、木曽川開発つまり大同電力の方に集中するために名古屋電灯を九州電灯鉄道に合併してしまったと語っている。また同時代の実業家青木鎌太郎は、福澤らの退陣は、市会の政友会系議員と組んで市政を壟断していると批判を受けた電政派問題の責任をとったことが有力な理由であったようだと述べている。 関西電気と九州電灯鉄道の合併は翌1922年(大正11年)5月31日付で逓信省から認可された。資本金は1億円超となり、供給区域は九州地方を含む12府県に及んだ。このように関西電気は社名の「関西」を超えて営業範囲が広がったため、新社名を公募し同年6月26日の定時株主総会にて社名を変更、「東邦電力株式会社」となった。同時に定款記載の本店を名古屋市から東京市へと変更し、本社を東京海上ビルへと移している。こうして名古屋電灯から関西電気を経て発展した東邦電力は、以後戦前期の大手電力会社「五大電力」の一角として1942年(昭和17年)に解散するまで活動することとなる。
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