東邦電力発足とは? わかりやすく解説

東邦電力発足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 17:23 UTC 版)

名古屋電灯」の記事における「東邦電力発足」の解説

市会における政争以外にもこの時期名古屋電灯関西電気)を取り巻内外環境悪化していた。事業について見ると、関西電気発足するころになると名古屋では市街地膨張に対して供給施設追いついておらず、供給力不足(水力発電主電源のため渇水期には特に電力不足であった)や送変電配電設備不備から停電頻発しており、地元の不満が高まっていた。また経理面では、事業資金調達必要性から株価の上昇を狙って1921年上期配当率年率20パーセント引き上げるという高配当策を採ったことで行き詰まりつつあった。その上、この高配当1921年上期時点全体6.4パーセント株式を持つ筆頭株主である社長福澤自身利するものとして非難の的にもなった。 1921年11月福澤桃介17日付の新聞紙上で関西電気取締役社長辞する発表した副社長下出民義取締役復帰していた兼松煕辞任同時に発表された。福澤辞任理由を、世間では様々な憶測あるようだが、会社経営順境なときにその潮時見計らって辞職するのが自らの主義であるから関西電気でも経営状態順境向かっているためこのを機会に退くのである、と語っている。翌12月23日関西電気成立後最初定時株主総会をもって福澤ら3名は辞任し新たに九州電灯鉄道社長伊丹弥太郎新社長に、同社常務松永安左エ門が新副社長それぞれ就任した伊丹佐賀財界人松永福澤慶應義塾時代後輩で、当時福岡拠点電気事業の経営にあたっていた。経営陣交代時点関西電気九州電灯鉄道合併内定しており、25日両社の間で合併契約締結された。合併条件は、存続会社関西電気九州電灯鉄道資本金同額5000万円増資して同社株主対し持株1につき新株1交付する、というものであった経営陣交代経緯は、福澤から引き継いだ松永回想によると、周囲との対立行き詰った福澤状況打開するために名古屋電灯関西水力電気合併させたが、そのようなことでは解決しないところまで事態悪化していたため、さらなる打開策として九州電灯鉄道合併させて松永を「ピンチヒッター」としたのだという。福澤自身後年伊藤次郎左衛門松坂屋経営)など名古屋財界人憲政会小山松寿名古屋新聞社経営)から排斥されたことに対す反抗心から関西への進出企て木曽川開発つまり大同電力方に集中するために名古屋電灯九州電灯鉄道合併してしまったと語っている。また同時代実業家青木鎌太郎は、福澤らの退陣は、市会政友会議員組んで市政壟断していると批判受けた政派問題責任をとったことが有力な理由であったようだと述べている。 関西電気九州電灯鉄道合併は翌1922年大正11年5月31日付で逓信省から認可された。資本金1億円超となり、供給区域九州地方を含む12府県及んだこのように関西電気社名の「関西」を超えて営業範囲広がったため、新社名を公募し同年6月26日定時株主総会にて社名変更、「東邦電力株式会社となった同時に定款記載本店名古屋市から東京市へと変更し本社東京海上ビルへと移している。こうして名古屋電灯から関西電気経て発展した東邦電力は、以後戦前期大手電力会社五大電力」の一角として1942年昭和17年)に解散するまで活動することとなる。

※この「東邦電力発足」の解説は、「名古屋電灯」の解説の一部です。
「東邦電力発足」を含む「名古屋電灯」の記事については、「名古屋電灯」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東邦電力発足」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東邦電力発足」の関連用語

東邦電力発足のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東邦電力発足のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの名古屋電灯 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS