東邦電力常務へ
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1921年(大正10年)12月、九州電灯鉄道の役員のうち伊丹と松永は、福澤桃介が経営していた関西電気(旧・名古屋電灯)の役員にも就任し、それぞれ社長・副社長となった。翌1922年(大正11年)5月、この関西電気と九州電灯鉄道の合併が成立。6月に関西電気が社名を変更したことで、資本金1億円超の大手電力会社東邦電力株式会社が発足した。進藤は発足とともにこの東邦電力に移っている。 東邦電力は発足間もない1922年6月、自社電源の増強を目的として飛騨川に水利権を持つ王子製紙系の岐阜興業を傘下に収め、社名を岐阜電力株式会社とした。岐阜電力の役員は代表取締役の成瀬正行をはじめ東邦電力から派遣されたが、進藤もその一人であり常務取締役に就任する。同年11月、同社によって七宗発電所の工事が始まり、東邦電力の飛騨川開発が始まった。 工事中の1924年(大正13年)3月から8月にかけて、岐阜電力常務として甥の武左ヱ門(当時東邦電力技師補)を帯同してアメリカ合衆国を視察した。目的は、当時東邦電力が東部電力・新潟電力など各地の電力会社の株式を買収して傘下に収めていたことから、サブシディアリー・カンパニー(subsidiary company、子会社)の統御方法を研究することにあった。滞米中はボストンのストーン・アンド・ウェブスターに出入りしその経営方法と子会社の統御方法を調査した。最後に各地の発電所やゼネラル・エレクトリック (GE) やウェスティングハウス・エレクトリックの工場などを回って帰国。武左ヱ門によると進藤が記した報告書は調査を命じた松永に喜ばれたという。 東邦電力は1923年の関東大震災を機に東京進出を目論み、その足がかりとして早川電力と群馬電力の2社を傘下に収めていたが、次いで両社の合併を主導して1925年(大正14年)3月に東京電力株式会社を設立した。設立とともに進藤は岐阜電力から転じて東京電力常務取締役に就任する。設立時、同社の重役は社長田島達策(群馬電力社長)、副社長松永安左エ門、専務宮口竹雄(群馬電力)、常務進藤甲兵・結城安次(早川電力)という陣容であったが、経営の実権は松永をはじめ東邦電力系重役にあり、とりわけ進藤は営業部長として第一線に立つことになった。東京電力は設立直後から積極経営でその陣容を整え、1927年(昭和2年)1月を期して東京電灯の牙城である東京市内およびその郊外に広がる工業地帯への電力供給を開始、同社との間で大口需要家を争奪する激しい「電力戦」を展開した。 東京電力対東京電灯の「電力戦」はその行く末を危惧した金融機関関係者の調停によって終戦となり、1928年(昭和3年)4月、東京電力は東京電灯に合併された。合併に際して東邦電力は進藤を東京電灯に引き継ぐよう要求したが実現していない。なお甥の武左ヱ門は東邦電力から東京電力に出向していたが、進藤の厳命により東京電灯に移り、後に同社取締役営業部次長まで昇進している。一方進藤本人は、1928年5月、東邦電力の関西駐在常務取締役に就任した。東邦電力の事業地域は名古屋を中心とする中京地方(関西区域と称した)と九州地方の2つに分かれており、関西駐在の役員として名古屋に常駐することとなった。
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