東邦電力時代
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1921年(大正10年)12月、九州電灯鉄道の役員のうち伊丹と松永は、福澤桃介が経営していた名古屋市の電力会社関西電気(旧・名古屋電灯)の役員にも就任し、それぞれ社長・副社長となった。翌1922年(大正11年)5月、この関西電気と九州電灯鉄道の合併が成立。6月に関西電気が社名を変更したことで、資本金1億円超の大手電力会社東邦電力株式会社が発足した。社名変更と同時に役員の増員が行われており、九州電灯鉄道から田中徳次郎が専務取締役、竹岡と桜木亮三が常務取締役に追加されている。東邦電力では常務兼経理部長を務める。 1929年(昭和4年)12月、職制変更で庶務部・経理部が統合され総務部となると竹岡は総務部長に就任。1937年(昭和12年)4月、合同電気合併に伴う職制改革では経理部長兼調査部長に回った。同年11月、常務から専務取締役に昇格する。さらに1939年(昭和14年)5月専務兼副社長となり、社長の松永安左エ門、同じく専務兼副社長の海東要造とともに代表取締役に選出された。 1940年(昭和15年)11月13日、竹岡は東邦電力第3代社長に就任した。当時強化されつつあった電力国家管理政策に対し反対の意見を貫いていた松永が1928年(昭和3年)以来その任にあった社長を退任、会長に退いたことに伴うものである。しかし社長就任半年後の1941年(昭和16年)5月、先に決定していた第2次電力国家管理(1939年の第1次国家管理に続き、全国の主要電力設備を国策会社日本発送電へ出資させる)に続いて配電事業も国策配電会社に統合するという方針が打ち出される。1942年(昭和17年)4月1日、これらの実行とともに東邦電力は解散し、最後まで社長を務めた竹岡は解散後の代表清算人となった。また1941年5月から務めていた日本発送電の監事からも4月7日に退いた。
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