東邦電力成立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 05:10 UTC 版)
「田中徳次郎 (東邦電力)」の記事における「東邦電力成立後」の解説
九州の電気事業にも関与していた福澤桃介は、中部地方でも関西電気(旧名古屋電灯)という電力会社を別に経営していたが、1921年(大正10年)12月、同社の社長を退き経営を松永安左エ門に託した。関西電気の経営陣は九州電灯鉄道関係者に移り、福澤の後任社長に伊丹弥太郎が就き、副社長には松永が就任する。翌1922年(大正11年)5月には関西電気と九州電灯鉄道の合併が成立し、翌月の社名変更により東邦電力株式会社が発足した。同年6月、徳次郎はこの東邦電力の専務取締役に就任している。会社の再編に従って名古屋へ移り、半年後には本社のある東京市内に転居した。 東邦電力では営業部長を務める。東邦電力専務として1923年(大正12年)8月より翌年5月までヨーロッパ各国へ出張し、電気事業やその他産業を広く視察・調査する。帰国後は東邦電力傘下の早川電力にて常務に就任するが、1925年(大正14年)3月に群馬電力と合併して東京電力(1928年東京電灯に吸収)となると監査役に転じた。 1926年(大正15年)からは東邦電力傘下に入った電力会社揖斐川電気株式会社(現・イビデン)にかかわる。1926年(大正15年)11月、同社社長に就任した。揖斐川電気は第一次世界大戦中に電気事業以外の兼営事業(カーバイド製造、フェロアロイ製造など)に進出していたが、大戦後の反動不況で事業が軒並み不振に陥っていた。再建策として東邦電力に資本参加を仰ぐこととなり、その結果東邦電力から徳次郎や久留島政治(専務就任)らが送り込まれたのであった。役員改選後、会社再建のため揖斐川電気は不振の鉄道事業(養老線)の売却と経営を圧迫する優先株式の償却に着手。鉄道事業の売却代金などを株式償却および減資に充当し、1928年(昭和3年)6月と翌年の2度に分けて減資を実施して資本金を3分の1に圧縮した。このうち第1回目の優先株償却が完了した1928年6月に徳次郎は社長を辞任し、かわって久留島が専務のまま代表取締役となった。 1929年(昭和4年)11月、東邦電力の専務を辞任。翌1930年(昭和5年)5月、同社監査役に就任したが、1931年(昭和6年)には退いている。同年4月、海東要造にかわって東邦電力傘下の合同電気副社長に就任した。 1932年(昭和7年)の夏、千葉県富浦の別荘において心筋梗塞で倒れた。同年12月、設立以来務めていた東邦電力傘下の鉄道会社九州鉄道(旧・筑紫電気軌道、1915年10月設立)の取締役を退任。東京大学医学部附属病院に入院していたところ、1933年(昭和8年)に入ってから発作を繰り返すことが多くなり、同年5月15日(誕生日)に死去した。満57歳没。死去時まで合同電気副社長および揖斐川電気取締役に在任していた。
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