東邦電力発足後
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1921年(大正10年)10月、名古屋電灯は奈良県の電力会社関西水力電気に合併された。ただし実質的には名古屋電灯による関西水力電気の合併であり、関西水力電気改め関西電気の経営陣は名古屋電灯から社長福澤桃介・副社長下出民義や常務の角田・神谷らがそのまま入った。同年11月、角田は欧米各国へ電気事業の視察へ出発、翌1922年(大正11年)5月帰国する。この間の1921年12月に関西電気では社長福澤・副社長下出らが辞任、九州電灯鉄道から伊丹弥太郎が社長、松永安左エ門が副社長として入った。さらには九州電灯鉄道との合併も成立し、1922年6月、資本金1億円超の電力会社・東邦電力が発足をみた。角田は東邦電力発足後も引き続き常務取締役に在任し、7月1日より電気事業の調査研究にあたる社内組織「調査部」の部長に就いた。 東邦電力関連では、同社が東京進出を目指し傘下に収めた早川電力の取締役に1924年(大正13年)3月就任し、同年6月より常務を務める。翌1925年(大正14年)3月、早川電力と群馬電力が合併し新発足した東京電力では取締役に選ばれた(常務には就任せず)。東京電力は東京周辺にて東京電灯と激しい「電力戦」を展開したのち、1928年(昭和3年)4月同社へ合併された。 東邦電力では1927年(昭和2年)5月の職制変更により常務兼庶務部長へ異動となる。2年半後の1929年(昭和4年)11月、常務取締役を辞任し、監査役へ転ずる。以後1936年(昭和11年)11月に辞任するまで監査役に在任した。また東邦電力以外でも、1928年11月木曽川電力(旧・電気製鋼所)取締役を、1929年12月大同電力取締役をそれぞれ退任している。 東邦電力監査役在任中の1934年(昭和9年)、満洲・哈爾浜(ハルビン)でのセメント工場建設計画に参加し、哈爾濱セメントの創立委員長に挙げられる。同年8月に会社が発足すると社長に就任した。また1937年(昭和12年)1月には東邦電力も出資する電力会社九州送電の監査役に就任し、1942年(昭和17年)1月の会社解散まで務めた。 1943年時点の『人事興信録』では、角田は遠州機械・大井川鐵道両社の取締役を務めるとある(哈爾浜セメントからは退任済み)。その後の経歴は不明。
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