電力戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 16:11 UTC 版)
福岡方面に先発企業である九州電灯鉄道(東邦電力)が存在したのと同様に、北九州方面でも九州水力電気に先駆けて九州電気軌道(九軌)という電気事業者が存在した。社名が示す通り鉄道事業者であり西日本鉄道(西鉄)の前身にあたるが、西鉄となる以前には電気事業も兼営していた。 この九州電気軌道は鉄道事業を目的として1908年12月に設立。神戸川崎財閥を率いる松方幸次郎が初代社長であった。設立後、鉄道開通に先立って供給事業も兼営することとなり、1909年から翌年にかけて沿線地域のうち小倉市・門司市・八幡市にそれぞれあった事業を買収。1911年5月に大型火力発電所の大門発電所を新設して事業を本格化させた。 1914年に九州水力電気が北九州方面への供給を始めた当初は、九州電気軌道との対立を回避する方針を採り、電力融通契約を締結して相互に電力の過不足を補給するという関係を結んでいた。また最初に供給した八幡製鉄所(八幡市所在)は九州電気軌道の供給区域内にある工場であったが、それ以降に供給を開始した工場はいずれも同社区域外の若松市・戸畑町(旧若松電気区域)にあり、九州電気軌道との競争を避けていた。しかしこうした協調体制は1919年の電力融通契約終了に伴う清算をめぐる対立で亀裂が生じた。さらに1921年の九州水力電気の洪水被害復旧にからんで対立は先鋭化し、九州水力電気は従来の紳士協定を破棄すると宣言、九州電気軌道の供給先であった八幡所在の中央セメント(後の小野田セメント八幡工場)への供給権を奪取した。1924年になると需要家の争奪戦、いわゆる「電力戦」は激しくなり、九州電気軌道側が九州水力電気の地盤である若松・戸畑および筑豊地方での電力供給区域を取得、広範に重複する電力供給区域において相互に大口需要家(工場への供給権)を奪いあう事態になった。 九州水力電気が奪取した供給先は中央セメントを含む9社計6万4,000kW、反対に九州電気軌道が奪取した供給先は4社計4,100kWであった。「電力戦」の結果、この地域一帯において電力料金が低下し、減収と重複設備投資によって両社ともに経営面で打撃を受けた。競争に疲弊した両社は競争終結を模索し、1927年10月、需要家の相互不可侵、両社協定金額以下の電力料金の禁止などを盛り込んだ協定締結を発表した。これにより「電力戦」は一応終結したが、必ずしも協定が順守されたわけではなく、しばらく両社の対立が続いた。
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