九水との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 13:55 UTC 版)
北九州工業地帯に電力を供給する事業者は、九州電気軌道以外にも九州水力電気(九水)という電力会社が存在した。同社は1911年4月に筑後川・山国川における電源開発を目的に設立。その発生電力の供給地は筑豊地方の炭鉱や北九州工業地帯の諸工場が目標とされ、福岡県では北九州一円と福岡市が同社の電力供給区域とされていた。したがって九州電気軌道とは門司・小倉両市と企救郡・遠賀郡の各一部にて電力供給区域が重複した(電灯供給区域は九州電気軌道のみの設定で重複せず)。 九州水力電気は1913年12月、大分県にて女子畑発電所(出力1万2,000キロワット)を完成させ、北九州への送電を開始した。翌1914年9月には八幡製鉄所への電力供給も開始している。1915年(大正4年)5月には若松市と戸畑町に供給していた若松電気から事業を買収して電灯供給を引き継いだ。こうして北九州へ進出した九州水力電気であるが、先発の事業者にあたる九州電気軌道とは当初協調関係を築いており、1914年下期に2,000キロワットの電力融通契約を締結、電力が不足する場合には相互に不足分を融通していた。また九州水力電気の供給先は八幡製鉄所を除いて九州電気軌道供給区域外(若松・戸畑)の諸工場に限られていた。 しかしこうした協調体制は1919年(大正8年)の電力融通契約終了に伴う清算をめぐる対立で亀裂が生じた。さらに1921年の九州水力電気の洪水被害復旧にからんで対立は先鋭化し、九州水力電気は従来の紳士協定を破棄すると宣言、九州電気軌道の供給先であった八幡所在の中央セメントへの供給権を奪取した。1924年(大正13年)になると需要家の争奪戦、いわゆる「電力戦」は激しくなり、九州電気軌道側が九州水力電気の地盤である若松・戸畑および筑豊地方での電力供給区域を取得、広範に重複する電力供給区域において相互に大口需要家(工場への供給権)を奪いあう事態になった。九州水力電気が奪取した供給先は中央セメントを含む9社計6万4,000キロワット、反対に九州電気軌道が奪取した供給先は4社計4,100キロワットであった。「電力戦」の結果、この地域一帯において電力料金が低下し、減収と重複設備投資によって両社ともに経営面で打撃を受けた。 1920年代の軌道事業では、新路線として枝光線が開業している。枝光線は創業時に軌道敷設特許を得ていたが長らく着工に至っていなかった線区で、1923年(大正12年)から1929年(昭和4年)にかけて中央区停留場(八幡市)から戸畑線に接続する幸町停留場(戸畑町)までの4.8キロメートルが開業した。
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