東京における「電力戦」
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東京進出にあたり、東邦電力ではまず早川電力の経営掌握を目指した。同社は浜松市を中心とする静岡県西部(元日英水電区域)に供給しており、東邦電力の供給区域とは浜松市内で重複しているため、東邦電力では早くから早川電力との関係強化を狙っていたが、進展していなかった。静岡県内での供給とは別に、早川電力では東京市内と周辺5町村に対する電力供給許可を持っていたため、同社は起業目的である富士川水系早川(山梨県)での電源開発とともに神奈川県の川崎へ至る東京送電線の建設を進めたが、用地の取得や資金調達が円滑でなかったところに関東大震災が発生し、事業が行き詰ってしまう。東邦電力ではこれを好機と見て早川電力の掌握にかかり、1924年3月、早川電力の株式を引き受けて同社を支配下に置いた。さらに同社の内容充実を待って3年以内に合併するという契約も結んだ。 早川電力との交渉中、群馬電力もあわせて支配下に置くこととなり、早川電力よりも先の1923年12月に経営権を握った。同社は群馬県を流れる利根川水系吾妻川の電力開発を目的に設立された会社で、供給面では京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が川崎を中心とする沿線地域で兼営していた電気供給事業を買収していた。こうして相次いで東京方面への供給権を持つ電力会社を傘下に収めた東邦電力は、早川電力と群馬電力の合併を仲介し、1925年(大正14年)3月16日、両社合併による東京電力株式会社を新設させた。資本金は早川電力の3000万円と群馬電力の1225万円をあわせた4225万円で、全株式の4割を東邦電力が持った。社長には群馬電力社長の田島達策、副社長には松永安左エ門が就いた。 東京電力(早川電力)との提携に伴い、東邦電力では名古屋方面の余剰電力を東京電力の供給区域である浜松方面へと送電するため、1924年(大正13年)11月に浜松送電線の建設に着手した。名古屋火力発電所と新設の浜松変電所との間を結ぶ亘長100kmに及ぶ77kV送電線であり、翌1925年7月に完成してまず3,000kWの送電が開始された。送電電力はその後1927年7月より11,000kWへと引き上げられている。これとは別に、東京電力側では東京方面へ供給するための電源開発に努め、山梨県内に大規模水力発電所を相次いで完成させる。さらに東京への本格進出のため東京府内の工場地帯における電力供給を逓信省へ申請し、南葛飾郡・南足立郡全域と北豊島郡南千住町を電力供給区域に追加する許可を得た。この地域は東京電灯の地盤と言われていた土地で、東京電灯全体の電力需要のうち1割以上がこの地域に集中していたという。 東京電力が供給許可を得たのに伴い、東京電力対東京電灯の需要家争奪戦、いわゆる「電力戦」が始まった。対象となった地域は、新規許可の3郡と既許可の東京市内深川区・本所区方面、川崎・横浜方面で、電力料金の引き下げを伴う勧誘合戦により需要家争奪戦が展開された。東京電力は1927年1月1日を期して新規許可地域への電力供給を開始し、東京電灯から切り替えた需要家や新規需要家への供給を始めた。1927年11月末(下期末)時点における東京電力の大口電力供給実績は8万2986kW、うち東京方面は7万4820kWに達し、半年間で5割増という盛況であった。しかしながら投資水準に見合った収益を上げるには至らず業績は好調とはいえない状態で、配当率は年率8パーセント前後で停滞した。
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