東京における山の手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 14:30 UTC 版)
東京においては歴史的に、江戸時代前期の御府内(江戸の市域 = 朱引、もしくは大江戸)において、江戸城の近辺とその西側の高台の山の手台地を幕臣などの居住地帯として開発した。 江戸時代中期以降は、江戸の人口増加によって土地が不足し、下町の本所や深川などにも武家屋敷が造成されるようになり、町人との住み分けは曖昧になっていった。 その一方で、山の手と呼ばれる麹町、麻布、赤坂にも町人町が広がっており、一口に江戸市街、特に山の手といっても、複雑な形相を示していることが特徴である。 現在の千代田区南西部、港区西部、新宿区東部、文京区に該当する麹町区、芝区西部、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区の旧東京15区の西半分が山の手の代表的な地域に相当し、武蔵野台地の東端部にあたる。 日本の近代化とともに山の手は西へと広がり、「第二山の手」と呼ばれる一帯が形成されていき、近代日本のはしりともなった。大正時代に入ると関東大震災を契機に、山の手はさらに東京西部へと広がりを見せることになった。 「山の手」はその後も変質を重ねており、現在の東京23区西部(目黒区、世田谷区、大田区、渋谷区、中野区、杉並区、豊島区、板橋区、練馬区、北区)にまで範囲が広がったため、漠然としたイメージとしての言葉になり、地域としての境界が曖昧になっている傾向も見られる。 東京における市街地としての「山の手」の成り立ちや下町との関係については、東京市街の変遷も参照
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