終戦へ
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「東京電力 (1925-1928)」の記事における「終戦へ」の解説
1927年1月に東京への本格進出を果たした東京電力では、それ以来東京・川崎方面での供給成績を大きく伸ばし、1927年下期末(11月末)の時点では1年前の実績の約2.5倍にあたる約7万7,000 kWの電力(数字は電熱用を除く)を供給していた。会社全体での供給実績は、電灯供給71万5078灯・電力供給13万1583馬力(約9万8,000 kW)に及ぶ。事業の拡張に伴い1927年下期の電力料収入は前年同期比1.5倍の407万円に拡大し、総収入は758万円となった。だが供給設備の相次ぐ拡充に伴う固定資産の増加率に比べて収入の増加率は伸び悩み、固定資産利益率についても東京電灯より低い4 - 5%で低迷した。つまり積極経営の効果が収益面で現れておらず、好調な経営とは言い難い状況であった。配当率で見ても、発足時の年率8パーセントから1926年上期に年率9パーセントに増配されていたが、1927年上期に元の水準に減配となっている。親会社東邦電力の配当率は同時期年率12パーセント(1927年下期より年率10パーセント)である。 一方東京電灯では、東京電力との電力戦の影響により1927年上期より電力料収入が減少に転じ、同年下期の電力料収入は前年同期に比べ146万円少ない1665万円に低下した。元々東京電灯の業績は利益率が低下して悪化傾向にあったが、電力戦はさらなる利益率の低下をもたらしたのである。東京電灯でも1926年下期から年率9パーセント配当であったが、1927年下期より年率8パーセントに減配した。 電力戦による東京電力・東京電灯両社の経営悪化に、両社に対して巨額の融資をしていた金融機関が危機感を抱きはじめる。1927年下期の時点で、社債・借入金・支払手形をあわせた負債額は東京電力が8947万円、東京電灯が2億4839万円に達しており、これらの資金は主に三井銀行・三菱銀行・安田銀行などの金融機関によるものであった。さらに東京電灯の場合は外債(米ドル・英ポンド建て社債)の発行から国外にも債権者があった。1927年3月に昭和金融恐慌が発生すると、電力戦の激化は金融機関を巻き込んで日本の金融システムそのものを危機に陥れる可能性も生じたため、金融機関のみならず大蔵省や日本銀行などもこの問題を注視するようになる。 こうした状況を受けて、三井銀行筆頭常務池田成彬や安田銀行副頭取結城豊太郎が東京電力・東京電灯の和解・合併の斡旋に乗り出した。特に東京電灯に対しては池田が人事にも介入し、1927年(昭和2年)7月に郷誠之助を会長に就任させ(社長は若尾が続投)、阪急電鉄創業者の小林一三を取締役として入れて経営改革にあたらせることとなった。両社合併への動きは7月に始まるが、9月になっても両社の意見の隔たりが大きく合併への合意には達しなかった。 1927年12月になると、金融恐慌の影響により両社とも建設資金の調達に窮するようになったことから、合併に関して歩み寄りがみられた。池田の斡旋もあり、12月13日には以下の合併条件に対し両社間の同意がおおむね得られた。 東京電灯対東京電力の合併比率は1対0.9(10対9)とする。 東京電灯は東京電力に対して解散手当110万円を支払う。 東京電力の松永安左エ門と宮口竹雄を東京電灯に取締役として入社させる。 大詰めを迎えた段階での問題点として、東京電力の親会社東邦電力は、直前(5日)に東京電灯が中京地方への電力供給許可を申請していたことを取り上げ、東京電灯に対し申請を撤回するよう求めたが、同社は譲歩せず合併交渉は紛糾した。また東京電力は取締役兼営業部長の進藤甲兵も東京電灯に引き継ぐよう求めたが、これも東京電灯側は拒否し、両社の関係は一時険悪なものとなった。 年末になると両社の歩み寄りが見られ、両社は合併実現まで攻撃的な行動をとらない、進藤については社員として引き継ぐが出社・執務させない、という妥協がなり、合併への手続きが進められた。そして12月24日、東京電力社長田島達策と東京電灯社長若尾璋八の間で両社の合併契約が締結されるに至った。
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終戦へ
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セバストポリ陥落直後にザカフカースの要衝カルス要塞がロシア軍の前に降伏したことから、事実上の戦勝国はなくなった。パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったが、フランスのナポレオン3世が世論を受けてこれ以上の戦闘を望まなかった。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えなかった。結局両陣営はともに、これ以上の戦闘継続は困難と判断した。 時を同じくしてロシアではニコライ1世が死去し、新たに即位したアレクサンドル2世は、かつてのオスマン帝国の全権特使でありロシア軍の総司令官であるメンシコフを罷免した。こうして同盟国側と和平交渉が進められていった。もっとも、明確な戦勝国のない状況で始められたパリでの講和会議は、戦争終結に貢献したということで発言権を増したサルデーニャ王国のカミッロ・カヴールのロビー活動によりハプスブルク批判に終始し、結局は大まかなところで戦前の大国間の立場を再確認するにとどまり、開戦当初に掲げられたポーランドの解放やバルカン諸国の安全保障などは完全に無視された。 こうして1856年3月30日にオーストリア帝国とプロイセン王国の立会いの下で、パリ条約が成立した。多くの歴史学者が認めているように、この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験していないロシアの国力の差が歴然と証明された。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていたのである。
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