終戦の実現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 05:13 UTC 版)
事態の急変を受けて、8月9日午前、最高戦争指導会議が開催された。東郷は「皇室の安泰」のみを条件としてポツダム宣言受諾をすべきと主張し、米内海相と平沼騏一郎枢密院議長がこれに賛成した。しかし阿南陸相は、皇室の安泰以外に、武装解除は日本側の手でおこなう、占領は最小限にし東京を占領対象からはずす、戦犯は日本人の手で処罰する、との4条件説を唱え、これに梅津陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長が同意して議論は平行線になった。特に東郷・米内と阿南の間では激しい議論が続いた。「戦局は五分五分である」という阿南に対し「個々の武勇談は別としてブーゲンビル、サイパン、フィリピン、レイテ、硫黄島、沖縄、我が方は完全に負けている」と米内は反論した。また「本土決戦は勝算がある」と主張する阿南・梅津に対し「もし仮に上陸部隊の第一波を撃破できたとしても、我が方はそこで戦力が尽きるのは明白である。敵側は続いて第二波の上陸作戦を敢行するに違いない。それ以降まで我が方が勝てるという保証はまったくない」と東郷は主張した。 この会議の中、長崎に第二の原子爆弾が投下されている。会議は深夜にいたり、天皇臨席の御前会議となった。鈴木首相は議論の収集がつかない旨を天皇に進言、結論を天皇の聖断にゆだねる旨を述べた。天皇は外務大臣の案に同意であると発言、またその理由として陸海軍の本土決戦準備がまったくできていないこと、このまま戦いを続ければ日本という国がなくなってしまうことなどを述べた。こうしてポツダム宣言の受諾は決まった。その受諾案において東郷は「皇室の安泰」という内容を(国体護持を講和の絶対条件とする抗戦派への印象を和らげるため)「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざることの了解の下」としていたのに対し、平沼の異議を受け「天皇の国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる了解の下」と変更が加えられた上で、天皇が受諾を決定したのである。 東郷は原爆投下について、スイス政府などを通じて抗議するように駐スイスの加瀬俊一(しゅんいち)公使へ指示するに促し、「大々的にプレスキャンペーンを継続し、米国の非人道的残忍行為を暴露攻撃すること、緊急の必要なり… 罪なき30万の市民の全部を挙げてこれを地獄に投ず。それは「ナチス」の残忍に数倍するものにして…」と述べた。また宣戦布告を通告してきたマリク・ソ連大使に向かって直接、中立条約に違反したソ連の国際法違反に厳重に抗議をしている。 日本の降伏に関して、天皇や皇室は終戦後の日本の混乱を収拾するために必要な存在であるとの認識は、連合国の政府に少なからず存在した。しかし「天皇の統治大権に変更を加えない」という受諾案はアメリカ首脳の間に波紋を与えた。トルーマン大統領は、ホワイトハウスで開いた会議で「天皇制を維持しながら日本の軍国主義を抹殺することができるか、条件付きの宣言受諾を考慮すべきか」と問いかけた。出席者の中でフォレスタル海軍長官やスティムソン陸軍長官、リーヒ海軍元帥は日本側回答の受諾を主張したが、外交の中心人物であるバーンズ国務長官が「なぜ日本側に妥協する必要があるのかわからない」と反論して、トルーマンがこれに賛同する。フォレスタルが「(連合国側が)降伏の条件を定義する形で日本の受諾を受け入れる」という妥協案を示し、トルーマンがこれを受け入れてバーンズに回答文の作成を命じ、天皇皇室に関しては曖昧にこれを認めるという回答文が日本側に8月12日に提示されることになった。 この「バーンズ回答」によると、天皇は「連合国最高司令官の権限に従属する (subject to)」こと、そして「天皇制度など日本政府の形態は日本国民の意思により自由に決定すること」と記されていた。これは巧みな形で天皇・皇室の維持を認めている曖昧な文章であった。阿南陸相、梅津参謀総長などはこの回答に対し、天皇皇室に関して曖昧なので連合国に再照会すべきだと強硬に主張し、ふたたび政府首脳は議論の対立に陥った。東郷と米内海相は再照会は交渉の決裂を意味するとして反論したが、当初はポツダム宣言受諾に賛成していた平沼枢密院議長が陸軍に同意するなどして事態は混乱、12日深夜、失意と疲労に満ちた東郷はいったん辞任を表明しかけてしまう。東郷の辞意に驚いた鈴木首相は再度の御前会議により事態の収拾をはかることを東郷に約束、辞意を翻させた。 しかし14日、昭和天皇が「前と同じく、私の意見は外務大臣に賛成である」という二度目の「聖断」として東郷支持を涙を流して表明したことにより、陸軍の強硬派もようやく折れ、ポツダム宣言受諾を迎えた。阿南は終戦の手続きに署名したのち論敵だった東郷を訪れ、「激論を繰り返しましたが、陸軍大臣としての職責からです。色々とお世話になりました」とにこやかに礼を述べ、東郷も「無事に終わって本当によかったです」と阿南に礼を述べた。あらゆる意味で几帳面な東郷は宣言受諾に際し、連合軍先方に、日本陸軍の武装解除は最大限名誉ある形にしてもらいたいと厳重に注意通告し、阿南はそのことを東郷に感謝していると述べて立ち去った。阿南は鈴木首相にも別れを告げたのち、翌15日未明「一死ヲ以ッテ大罪ヲ謝シ奉ル。神州不滅ヲ確信シツツ」の遺書を残して割腹。人前で涙など見せたことのない東郷だが、阿南自決の報に「そうか、腹を切ったか。阿南というのは本当にいい男だったな」と落涙した。
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