終戦による閉校まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 03:29 UTC 版)
「東京陸軍航空学校」の記事における「終戦による閉校まで」の解説
1944年(昭和19年)、太平洋戦争の戦況悪化により、陸軍では航空関係の大量増員が必要とされていた。8月、翌年採用される陸軍少年飛行兵学校生徒召募がされた(陸軍省告示第37号)。採用資格は入校年の4月1日時点の満年齢が14歳以上18歳未満で、身体検査と面接考査だけで合否を決定し、学科試験は行われなくなった。 1945年(昭和20年)4月、本土決戦に向けた航空総軍の設立にともない陸軍航空総監部が閉鎖された。陸軍航空本部令外三勅令が改正され(勅令第228号)、陸軍少年飛行兵学校は「当分ノ内」という条件で陸軍航空本部の管轄する学校となった。また陸軍少年飛行兵学校での基本教育を修了した生徒が進む上級校は航空師団、航空教育団、教導航空通信師団に軍隊化された。 同年8月、日本政府はポツダム宣言の受諾を決定し、8月15日に太平洋戦争の終戦に関する玉音放送がされた。8月18日、全陸軍は与えられていた作戦任務を解かれ、東京、大津、大分の各陸軍少年飛行兵学校は同月中に閉校となった。学校の根拠となる陸軍少年飛行兵学校令は同年11月13日施行の「陸海軍ノ復員ニ伴ヒ不要ト為ルベキ勅令ノ廃止ニ関スル件」(勅令第632号)により廃止された。
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